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2015年04月01日

新聞の歴史とこれから番外編:前島密の足跡②~旧勢力を飲み込むことで郵便事業は一気に広まった

前回は、通信の父である前島密が、実は漢字廃止論者であること、そのために「ひらがなしんぶん」を発刊したことを扱いました。
今回は前島密の中で最も有名な郵便事業の実施について詳細に取り上げていきます。
>・1870年(明治3)に租税権正(ごんのかみ)及び駅逓権正兼務を命じられます。駅逓司とは、役人の旅行や手紙や品物を送る仕事をしているところで、この改革として郵便創業の建議を行いました。番外編:前島密①)
一円切手
駅逓権正に就任した前島は「治国の要は通信の快速四達にある」と主張し「新式郵便」の創設を建議しました。それまで飛脚問屋が独占していた通信や運輸の業務を官営事業に切り替えようとします。

江戸時代では飛脚はそれぞれ、幕府の文書を担当する継飛脚と、江戸と大名の地元の通信を担当する大名飛脚、一般庶民が利用する町飛脚にそれぞれ役割分化され運んでいましたが、アメリカの通信制度に習い、官民問わず一緒に伝送するやり方を採用し、大幅なコストダウンと利用者の拡大を図ろうとしたのです。まず試験的に東京-京都間で毎日往復させる案を立案します。

しかし実行前に、政府事業であった鉄道敷設の資金調達トラブルの対応のため、郵便事業から離れ急遽イギリスに渡ることになりました。実はそれも郵便事業を大きく加速前進させるきっかけにもなりました。

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丁度その頃のイギリスは産業革命に突入し、鉄道を使った交通や通信の発達は目覚しいものだったのです。さらにイギリスは1840年にローランド・ヒルの改革により近代郵便制度を実施し、郵便為替や郵便貯金も取り扱っていたので、公務の傍ら郵便事業を見聞きしてきた前島は、1872年に帰国すると、早速日本にもそれを取り入れていこうとしたのです。

郵便事業を全国展開するには、中継点となる郵便局が必要です。ところが、当時の明治政府にはお金がありませんでした。収入は旧幕府時代の旧幕府直轄領からだけだったからです。1872年(明治5)に慌てて太陽暦に改暦したのも、丁度翌年が旧暦では13ヶ月になり、「1月分月給を余分に支払うことになるから」というエピソードもあるくらいです。

そこで全国各地の資産家(名主や庄屋)に呼びかけ、ほとんど無報酬で要請・任命し、自宅を郵便取扱所にさせたのです。実際、明治5年での官設の機関は、東京日本橋、京都、大阪、横浜、神戸、長崎の6箇所で、対して民設の郵便取扱所は実に1120箇所もありました。

協力にこぎつけた理由としては

① 国家の仕事に係わるという名誉職であること
② 地租改正により役割が消失する名主や庄屋に対して新たな役割となること

の2点が挙げられます。
それまで名主や庄屋の役割は、村単位で定められた年貢を集めて幕府や大名に納入することでしたが、前島の進める地租改正により、新政府が直接現金で集めることになったため、名主以下の役人が不要になったのです。役割を失うことになった名主や庄屋にとって、新規事業としての郵便は大きな魅力となったでしょう。

この郵便取扱所は、その後の特定郵便局につながり「世襲制の公務員」として非難の対象になりましたが、それでも創業わずか2年で全国ネットまで郵便事業が一気に全国拡大を実現したのは、この郵便取扱所のおかげと言えます。

又、それまで日本の通信手段の一翼を担ってきた飛脚は、郵便事業と競合相手となります。そこで前島は、郵便事業に反対していた定飛脚問屋である佐々木荘助と協議し、飛脚問屋を再組織化した陸運元会社に小荷物と現金輸送に従事させることで役割分担して継続させ、一方で優秀な飛脚は郵便局員として配達人として採用したのです。(*この陸運元会社は今の日本通運につながります。)

こうして郵便事業は新しい事業として日本の中に広がっていきます、それを支えるのは名主や飛脚といった、旧来の制度の人たちだったのです。通信事業を成功させるには、いかに早く隅々までそのNWを張り巡らせられるかにかかっている。そのために競合する旧勢力さえ飲み込んで活用したことが「成功の鍵」となったと言えます。

 

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