2015年04月16日
新聞の歴史とこれから⑭~これから求められる新聞媒体について~
インターネットの登場により、私たちは与えられた情報を受け入れるだけの受動的なスタンスから、自ら能動的に情報を検索し、発信するスタンスへと大きく切り替わりました。さらにそれらの情報から新しい可能性を探索し実行していく、自考スタイルへと発展しつつあります。この自考スタイルを推進していくためには、人々の社会的問題意識や、古い私権観念に毒されていない潜在意識を刺激する情報が必要だと考えています。
しかし一方でインターネット上での情報の信憑性については、まだまだ改善の余地があります。それは情報収集や発信の目的が、自己の都合や願望、正当化に偏る、言わば“自分”発であり、皆にとって有益な情報や皆の為の発信となっていないからです。確かにネット上には、一面的で断定的な情報や故意に捻じ曲がった情報も散見されます。
これらの問題意識を下敷きにして、これからの情報社会を生きる視点で、新聞という媒体を検証してみます。
これまでこのシリーズでは「新聞の歴史とこれから」というタイトルで新聞の歴史を取り上げてきました。その中で特筆すべきは「大衆に代わって権力者にモノ申していたとき」と、単に発信するだけでなく「運動や活動につなげる仕組みを作ってきたとき」に新聞が社会的に重要な役割を果たしていたこと。そして「戸別販売で毎日届く」ということが、日本の新聞の最大の強みであることでした。現代の新聞離れは、本質的には、マスコミの偏向報道そのものへの不信感からくるのですが、実は、人々の新聞離れを引き起こした要因の一つがかつての“新聞の最大の強み”だったようです。今回はそれを取り上げて、新聞媒体のこれからを考えてみます。
・・・・・では、まず新聞の強みの一つであるこの「戸別販売」という点に着目していきましょう。
以前「新聞の歴史とこれから⑥」で取り上げましたが、一般の新聞ページは約30面あります。これを全て隅から隅まで読む人は少ないでしょう。例えば、子供はテレビ面やスポーツ面、母親は生活面や教育面(+折込チラシ)、父親が経済、社会面という具合に、上手く分かれていたのです。家族それぞれの必要と思われる情報が1部に合わさったところに、新聞の価値がありました。
新聞発行部数の伸びは、高度経済成長期である1960~70年代に顕著に見られ、そこから伸び率は小さくなり、2010年にマイナスに転じます。一方宅配である新聞発行部数を支える世帯数も、1960~90年代までは新聞発行部数と連動した伸びを見せますが、その後は発行部数の動きとは連動していないようです。 ★データ発行部数と世帯数
世帯数の伸びの要因の一つは核家族化で、もう一つが単独世帯の増加です。核家族化は既に大正時代から始まり、1970年代にピークを迎えます。一方、一人暮らし≒単独世帯については、戦後急増してきました。つまり新聞の発行部数増加は、1960年代の高度経済成長期の追い風に乗り、華々しい情報で紙面を賑わし、マスコミの力が社会的に高まったこともありますが、冷静に見れば世帯数の増加が起した現象にすぎなかった、ということです。マスコミの力の増大は新聞ではなく、むしろラジオ、テレビの普及によるものが大きいのです。
大家族から単独世帯へと分散していくと、世帯数は増えますが、1人なので30面ある紙面を持て余し、大部分はほとんどは読まない≒不要のゴミになります。それが毎日配達されるならば、ほとんど暴力に近いかもしれません。今の人が新聞を読まなくなったのではなく、昔から新聞は家族で少しずつ“つまみ読み”しかされていなかったのだと考えるべきだったのです。新聞社が部数増加に胡坐をかいていたために、この世帯構成の変化に追随できず、新聞離れにつながったのです。
・・・・・次に「毎日届く」という点に注目しましょう。
るいネットに「それでも子供新聞が売れている」という記事があります。子供新聞は、子供たちの社会意識に応えて分かりやすく解説しているのが売れている理由ですが、一般の新聞との違いでいえば、常に概略が書かれている点も挙げたいと思います。
記者からすれば、その事件や事故等を担当して毎日記事を書いていて、それが毎日届けているのだから「前の記事を読んでいる」という前提での構成や内容になりやすい。あるいは途中経過の中で記事を書くことも多く、この場合単なる報告で、分析や解説のない記事になる。つまり読者にとってはその記事だけ読んでも理解しにくい、という状況になっているということなのです。
一方、子供新聞の場合は、最新の情報を出すより、少し過去のことだが社会的に重要なものをピックアップしているケースが多く、その分概略や解説が丁寧に書かれているので読みやすい構成になっているのです。
ラジオやテレビ、インターネットといった速報性の高い媒体が次から次へと出現してきており、スピード面で“新聞”という媒体は太刀打ちできません。ということは新聞が生き残る土俵はそこにはないということです。ではこれからの社会で新聞は不要になるのでしょうか?
私たちが能動的な情報検索のスタイルへと移行しつつあるといっても、冒頭展開したように、断片情報や信憑性の低い情報の坩堝になっているネット社会では、求める事実にたどり着くことはなかなか困難です。
とすれば、これからの新聞に求められているのは、現在のように日々の断面情報を寄せ集めるのではなく、表面的には別々に見えるそれらの事象を繋げること。繋げる為にはその根っこにある社会を、深く掘り下げることが不可欠で、その切り口や分析、解説を人々は求めているのだと考えられます。
例えば、冒頭で取り上げたように、新聞は政治面と経済面、社会面、情報媒体(マスコミ・TV)面と分かれていますが、ある事件や事象について政界はどう反応しているのか、経済界はどう反応しているのか、さらに日本or海外のマスコミはどう報道しているのか、をつなげてみるのはどうでしょうか。多少の時間差はあっても、各業界は常に連動しており、それらの連携を整理すれば日本がどう動いているのかを掴むきっかけになるはず。新聞媒体は、音や映像を駆使してイメージを刷り込むのではない分、根拠のある分析と構造化を示す必要がありますが、紙という特徴を活かして図解やグラフ等を活用すれば、理解を助け読み応えのあるものになるはずです。
情報媒体は、本や雑誌、ラジオ、TV、パソコン、スマホ等、様々出回っています。読みやすく、軽くてかさばらず、持ち運びやすく、電力も操作も不要。この新聞紙媒体の特徴を最大限活用すれば、誰もが使いやすい共通の媒体として復活できるでしょう。そういう新聞の登場を心待ちにしています☆
- posted by komasagg at : 21:01 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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