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2015年08月12日

地方紙の研究 ~熊本日日新聞の水俣病への取組み~

前回は、地域の人々の期待を受けた内容をブレずに展開してきた地方紙「琉球新報」を紹介しましたが、今回は少し違う地方紙として「熊本日日新聞」を紹介します。地域の人々がある意味、忘れ去りたいコトを執拗に追いかけているのです。それはなぜなのでしょうか??

熊本日日新聞は、明治10年代に国権主義を奉じて発刊された「紫溟(しめい)雑誌」の流れをくむ「九州日日新聞」と、政友会系「九州新聞」が1942年の「新聞事業令」によって合併して出来た歴史を持っています。
実は冒頭で挙げた「忘れ去りたいコト」とは、公害病として有名な「水俣病」の扱いなのです。改めて水俣病を紹介します。

水俣病
水俣病は、熊本県水俣湾周辺で1956(昭和31)年5月に、新潟県阿賀野川流域で1965(昭和40)年5月に発見されたもので、四肢末端の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、中枢性聴力障害を主要な症状とする中枢神経系の疾患です。
1968(昭和43)年にそれぞれチッソ株式会社、昭和電工株式会社の工場から排出されたメチル水銀化合物が魚介類に蓄積し、それを経口摂取することによって起こった中毒性の中枢神経系疾患であるという厚生省(当時)の見解が出されました。(リンク

では早速、「地方紙の研究~熊本日日新聞」を一部引用して、地方紙の在り方を考えてみましょう。

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水俣市は、熊本県の最南端に位置し、2015年では人口2万5000人のまちです。そこで約60年前に悲劇が起こります。

水俣病の第一報は、1954年8月1日付
「猫てんかんで全滅 ねずみの激増に悲鳴 水俣市茂道部落」というものだった。(「地方紙の研究」より)

当時は、猫が狂い死にし始めたため、ねずみが急増し、漁村を荒らし回り被害が出ていることが、問題として取り合えげられただけでした。
そして2年後の1956年5月1日に新日本窒素肥料(チッソ)附属病院細川院長が、水俣保健所長に「類例のない疾患発生」と報告しましたことで状況が一変します。

熊日の第二報はその二週間後
「水俣に子供の奇病 同じ病原か ネコにも発生」
8月になって熊本大学、新日本窒素肥料附属病院、地元医師会、市関係者などによる研究会がはじまった。(「地方紙の研究」より)

しかしチッソの廃液からの「有機水銀説」が出る一方で、旧日本軍が海中投棄した「爆薬説」などが持ち出されるなど、企業と学者の癒着で原因を特定させない状況を続けました。そして

1959年12月、当時の寺本県知事がチッソと漁民の間に立って、死者30万、生存者年金10万円の「見舞金契約」が成立した。「工場排水に起因することが決定した場合でも新たな補償は一切しない」との一項が抜け目なく入れられていた。県知事、県議会議長、水俣市長、県町村会長などの調停委員に加わっていたのが「熊日」の社長だった。(「地方紙の研究」より)

そう、ここでは地方紙である「熊日」自身が被害者側ではなく、企業側に立ってしまったのです
そして行政とマスコミから押さえ込まれ、ほとんど忘れられていたかに見えた水俣病患者が、再び注目されるようになるのは、それから7年以上経った1967年6月でした。「新潟水俣病」の患者が昭和電工を相手に損害賠償訴訟を起したことがきっかけだった
そしてこの病気が「公害病」と認定されるのが、1968年9月になってから。熊日の第一報から実に14年の歳月が流れていた。

1968年4月から「熊日」は「水俣病は叫ぶ」23回の連載を始めた。それは熊日の仕切り直しでもあった。当時の編集局長だった西村一成氏は
「県や国は終結宣言みたいなことをやっています。いやそうではないんだ、今から始まるんだ、そんな生易しい問題ではない、ということなんです。地域を破壊し、身体ばかりではない、心の問題も残されています。それをこれから全国に伝えていく義務があると思っています。」(「地方紙の研究」より)

そしてさらにその28年後・・・。

96年1月から「熊日」は「水俣病40年―無限漂流」を1年3ヶ月に亘って連載した。患者とその家族の実情、患者と市民の「もやい直し」(関係の再構築)による地域の再生、胎児性患者の表情など、「水俣病は終わっていない」とする、地元紙ならではのキャンペーンである。
  (中略)
「そもそもあまり関心がないんじゃないかな、これ、県民がですよ。」取材班キャップ荒木社会部次長(当時)
東京からみれば水俣ははるかに遠い。しかし熊本市からみても、水俣は辺境の地である。水俣湾は埋め立てられ、汚染魚を閉じ込めていた「仕切り網」も撤去された。漁村に患者はひっそり暮らしているのだが、外からは見えない。それに被害者とはいえ、今更マスコミには出たくない、との気持ちが強い。
  (中略)
いま水俣病を扱うのは、県民世論をストレートに反映していないかもしれない。それでも「熊日」の記者として働いている限り、今何が問題なのか、というふうに立てるべきだと思います。」(「地方紙の研究」より)

県民の大多数の意見からすれば、水俣病以外の記事を掲載することが民意なのだろう。60年近く昔の、もう忘れ去りたい過去なのかもしれない。しかし地方紙が「数」に目を向けた瞬間に市場圧力に流されてしまい、私企業の顔が出てしまう。そのため県民にとって本質的なことが曖昧にされてしまう。熊日の取り組みは、私企業でありながら、住民の共認機関として稼動するマスコミの立ち居地を模索している様子が良く分かる事例です。今の原発をテーマに掲げることと同じに見えてきます。

 

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