2015年09月15日
共同体と教育~教育における日本らしさとは?~
「日本らしさ」と聞くとどんなイメージを持たれるでしょうか?謙虚・勤勉・おもてなしの精神といった内容が挙げられることが多いでしょう。
では、「教育」という分野における日本らしさとは、どういったものでしょう。学習指導要領が改訂されるこの時期に、改めて教育における日本らしさを考えてみようと思います。一燈園という学校にそのヒントがありました。
前回記事
江戸期の子供達に見る無意識の教育
画像はコチラからお借りしました。
一燈園は、創業者の西田天香の教えを40年以上にわたって身をもって伝える相大二郎先生が学園長をなさっている幼稚園、小学校、中学校、高校の一貫教育を行う学校です。少人数クラスで個性を伸ばす全人教育を目指しています。
一燈園には、祈・汗・学という3つの教育理念の柱があります。
最初にこの3つを聞くとなんだか古くさい精神論のように聞こえてしまうかも知れませんが、私は一燈園のすばらしさがここに集約されていると思います。
「祈」とは、すなわち「心への刺激」であり、内省を奨励し人間性・価値観を形成すること。
「汗」とは、すなわち「体への刺激」であり、毎日の生活習慣を通じてそこに何かを学び取るということ。
「学」とは、すなわち「脳」への刺激であり、知識や技術を身につけるということ。そして、「学」は教えることは出来るが、「祈」と「汗」については教えることができないのであり、本人が「気づく」のである。と相大二郎校長先生はお話しされました。どうでしょう。どこかすんなりと腹に落ちる考え方ではないでしょうか。
さらにそのための具体的な教育方法ついて、深堀って紹介したいと思います。
一燈園のこどもたちの作文を読むと、私たち大人以上の恐るべき深い内省力が備わっていることを感じます。内省力とは、「自分自身」が一体、何を感じているのか、考えているのかを感じ分かる力だといえます。私や多くの皆さんは学校や社会人になって、随分と自分の外部にある知識や情報を膨大にインプットしたり分析したりすることを鍛えられてきたのではないでしょうか。しかし、自分の中にあることに気づくことにどれだけ大切に出来ているでしょうか。21世紀スキルと言われている「他者との対話」の力は、実は「自分との対話」の力がなければ成立しないものです。
ここ一燈園では、毎朝の「瞑想」という日本的なアプローチで、自分自身と対話する力を身につけることをサポートしているといえます。こどもたちは、自分の内側にこそ大きな学びの大陸があることに気付くのです。
一燈園のトイレは本当に驚くほどピカピカです。ここでは、掃除は、生徒も先生も便器を磨きます。また、必ず上級生になると必ず作務の時間が設けられており、それは学校の外の地域の清掃などが含まれてきます。そして高2の修学旅行での年頭行願では、見ず知らずの家を訪ね、トイレ掃除をさせて頂く、ことが年中行事で行われるとのことでした。ここまで徹底しているこだわりは、自分の体を動かす労働や奉仕の中に、そこに知識学習にはない学びや大切な発見があるという、先述の「汗」の理念からくるものです。
一生懸命、トイレ掃除をピカピカに行うなかで子ども達は様々なことを感じるようです。人生を生きていくなかでやりっぱなしにしないで後始末をするということ。自分が何かを行い人に感謝をされるということ。見ず知らずの人のやさしさに気付くこと。。。。
生徒たちの作文を紹介しながら、相大二郎先生は、深くしっかりした声で、おっしゃられました。「このような生徒達の気づきというのは、教えられないことですね。」
もうひとつ、一燈園の中心にある思想を紹介しておきたい。それは、正しいか、という発想ではなく、自然に適う、という考え方をもっていることです。自然とは、環境としての自然、現象としての自然、摂理としての自然、全てのことをさしています。一燈園に行くとわかるのですが、本当に美しい庭や、木々に囲まれた中で、まさに摂理を感じていくことを大事にされているように思います。ここには、日本の文化は里山のように、環境的自然と調和しながらその摂理を大事にしてきたこともまた、ここに体現されたように思った次第です。
一燈園には、校門がありません。正しいか、正しくないかで考えると校門があるべきかも知れません。しかし、この学校は歴史的に真に地域とつながっています。摂理としてこの学校には校門はいらない、それを実現できている凄さがここにはあります。
- posted by 岩井G at : 20:26 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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