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2019年05月14日

なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?

感受性の豊かさ、物事の機微を表現する言葉の多さ、風情などなど、日本人は独特の感性を持っていると感じています。
日本人の脳は、諸外国人に比べて何か違いがあるのではないでしょうかm052.gif

調べてみると、日本人の聴力と外国人の聴力には大きな違いがあるらしいですicon_eek.gif
耳で受信した音や声を脳の中で変換する際、日本人に聞こえる声が、外国人には聞こえないらしい。明らかに脳の性能が異なるということです。

「聴く力」が優れている。

これは、今後の追求課題であるが、日本人こそが、共同体社会の先陣を走るという根拠になりうると感じます。

以下、livedoorNEWS http://news.livedoor.com/article/detail/12520396/より引用。

●外国人は虫の音に気付かない?
日本人と外国人が同じ状況で虫の音を聞いても、外国人には虫の音が聴こえないという実例があった。
全部が全部ではないだろうが、どうやら、日本人の耳と、外国人の耳は違いがあるようだ。
西洋人は、音が聴こえないというより、機械音や雑音と同様に脳が処理しているとのこと。
日本人は虫の音を人と同じように「虫の声」として聞いているとのこと。 このような特徴は、世界でも日本人とポリネシア人だけに見られ、中国人や韓国人も西洋型を示すという。
さらに興味深いことは、日本人でも外国語を母語として育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母語として育つと日本人型になってしまう、というのである。
脳の物理的構造というハードウェアの問題ではなく、幼児期にまず母語としてどの言語を教わったのか、というソフトウェアの問題らしい。

●日本人は虫の音を声として聴く
東京医科歯科大学の角田忠信教授が、日本人の脳が他の民族の脳と違う点を生理学的に追求してきた。
追求によると、日本人は、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、言語と同様に聴き、西洋人は楽器や雑音と同じように聴いていることが分かった。
アメリカ人が虫というとまず思い浮かべるのは、モスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)など、害虫の類だ。
アメリカでは蜂はまだしも、蚊や蠅はほとんどお目にかからない。
だからたまに蠅を見かけると、とんでもない不衛生な所だという感じがする。
文明生活の敵だとして、とことん退治してしまったのだろうか? また昆虫を示す単語には、悪い語感が付随している場合が多い。
“insect”には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、”bug”は、「悩ましい、てこずらせる」から転じてソフトウェアの「バグ」などと使われる。
日本語なら「虫けら」とか、蚤、シラミのイメージだ。
虫はすべて害虫であり、その鳴く音も雑音と同様に聞くとなれば、蚊や蠅を退治する殺虫剤で、見境なく一緒に全滅させてしまったとしても無理はない。
日本では対照的に、虫の音に聴き入る文化がある。
現代でもコオロギ類の画像と鳴き声を納めたインターネットサイトから、飼育法を解説した書籍まで無数にある。
「虫の声」という以下の童謡は、虫の音に聴き入る文化が子供の頃から親しまれている一例である。

あれ松虫が鳴いている
チンチロ チンチロ チンチロリン
あれ 鈴虫も鳴き出した
リン リン リン リン リーン リン
秋の夜長を鳴きとおす
ああ おもしろい 虫の声

この伝統は古代にまで遡る。 夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこおろぎ鳴くも (万葉集、しのに:しっとりと濡れて、しみじみした気分で) 近世では、明治天皇の御製が心に残る。
ひとりしてしづかにきけば聞くままにしげくなりゆくむしのこゑかな 一人静かに耳を傾けると、虫の声がより一層繁く聞こえてくるという、いかにも精密な心理描写である。
もう一つ明治天皇の御歌を引いておこう。 虫声 さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思ひは松虫や鈴虫など、さまざまな虫がさまざまな声で鳴いている。
それらの声に「生きとし生けるもの」のさまざまな思いが知られる、というのである。
人も虫もともに「生きとし生けるもの」として、等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観がうかがわれる。
虫の音も人の声と同様に言語脳で聞く、という日本人の特性は、この文化に見事に照応している。

●犬は「ワンワン」、猫は「ニャーニャー」
角田教授の発見では、虫の音だけでなく、そのほかの動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。
これまた山や川や海まで、ありとあらゆる自然物に神が宿り、人間はその一員に過ぎないという日本古来からの自然観に合致している。
幼稚園から小学校の4、5年ぐらいの日本の子供に、犬はなんといって鳴くかというと、ワンワンというにきまっているのです。マツムシはチンチロリンという。
外国人に聞きますと、ひじょうに困るのです。
なんというていいか一生懸命考えて記憶を呼び出して、ウォーウォーといったり、ワーワーと言ったり。 日本の子供が「ワンワン」と答えるのは当然である。
親が犬を指して「ワンワン」と教えるのであるから。

同様に猫は「ニャーニャー」、牛は「モーモー」、豚は「ブウブウ」、小川は「サラサラ」、波は「ザブーン」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」。
まるで自然物はすべて「声」をもつかのようである。

このような擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、日本語の特徴である。幼児がこれらを最初から学んでくれば、虫や動物の鳴き声も自然音もすべて言語の一部として、言語脳で処理するというのも当然かもしれない。
あるいは、逆に、言語脳で処理するから、言語の一部として擬声語、擬音語が豊かに発達したのか? いずれにしろ、自然音を言語脳で受けとめるという日本人の生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達したという日本語の言語学的特徴と、さらに自然物にはすべて神が宿っているという日本的自然観との3点セットが、見事に我々の中に揃っているのである。

 ●違うがゆえに独創的なものが生まれる
日本語による脳の違いとは、我々にとってどのような意味を持つのだろうか?
理論物理学者の湯川秀樹博士は、角田教授との対談でこう語る。
つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であると言われてきた。

(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。
そうするとそこで私が考えますことは、その違うということを生かすという方向です。違うということは上とか下とかいうことではなくて、その違いということを生かす。
(中略)違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。 西洋に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です。
「違うがゆえに独創的なものが生まれる」とは、独創的な中間子理論でノーベル賞を受賞した湯川博士の言葉だけに重みがある。

日本語の脳の違いは人類の多様性増大に貢献しているわけで、「虫の音に耳を傾ける文化」などは人類全体の文化をより豊かにする独創的なものと言える。
こうした「生きとし生けるもの」の「声」に耳を傾けるという自然に対する敬虔な姿勢は、今後「宇宙船地球号」の中です べての生命と共生していくために貴重な示唆を与えうる。
我々が受け継いだこの「日本語の脳」の違いを意識的に極め、その独創性をよりよく発揮していくことは、我々日本人の全世界に対する責務とも言えるだろう。

 

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