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2020年09月24日

織田信長の築城革命~なぜ信長は引越を繰り返したのか~

織田信長といえば、日本の歴史でも人気の高い人物の一人です。常識に囚われない様々な発想が魅力の一つですが、それは天下統一という誰も成し遂げられていない目的に向けての戦略思考だったのです。その中で今回は信長が作り上げた「城」について取り上げていきます。

1.守りから攻めの城へ
戦国時代の大名たちにとって領国経営の本拠地である居城は非常に重要な場所であり、領土を拡大しても居城を変えることはほとんどありません。例えば、軍神と呼ばれた上杉謙信は、関東や越中に度々出兵して領土を拡大していますが、生まれ育った春日城(新潟県)から居城を変えることはありませんでした。「一所懸命」という言葉通り、父祖伝来の土地を守ることに命をかけた大名やその家臣たちにとって、居城はある種の「聖域」だったのです。
しかし、そんな戦国時代の常識を覆し、たびたび居城の引っ越しを行ったのが織田信長です。なぜ、信長はこれほど引っ越しを繰り返したのでしょうか?

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①那古野城から清須城へ
信長が初めて城主となった那古野城は、父・信秀が今川氏から奪った城。それから天文23年(1554)に尾張国内統一を機に、尾張守護の居館だった清須城を自分の居城にします。清須は尾張の中央に位置して、東海道や伊勢湾に近い交通の要衝であり、ここで尾張進出を狙う今川義元と対峙します。

②小牧城へ
永禄3年(1560)、今川義元を桶狭間で破り尾張を完全に掌握した信長は、斎藤義龍を攻略するために美濃に近い小牧山で初めて自ら築城を行います。

③岐阜城(稲葉山城)へ
こうして小牧城から本格的に美濃攻めに動き出し、わずか4年で完了。信長はこの勝利で敵の居城・稲葉山城を手に入れます。稲葉山城は金華山上に位置する天然の要害であると同時に、東海道や東山道を押さえる交通の要衝でした。信長は稲葉山城へ入城し、「岐阜城」と名を改めると、「天下布武」を掲げて天下統一を目指すことを宣言します。美濃攻略の先に上洛と畿内掌握を見据えており、岐阜城はその足掛かりとして最適だったのです。

写真はコチラからお借りしました

写真はコチラからお借りしました

④安土城へ
そして、長篠の戦いで武田軍を破った翌年の天正4年(1576)、右大将に昇進した信長が築いた城が安土城です。水上交通の要衝・琵琶湖のほとりに建つ安土城下には、政治の中心だった京都につながる中山道や北国街道など東西南北の主要な街道もあります。信長は、羽柴秀吉や明智光秀などの有力家臣に琵琶湖周辺の領地を与えて城を築かせ、連携してこの交通網を押さえます。天下統一の拠点として最も適した土地と判断したのです。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」とは信長が好んだ幸若舞「敦盛」の一節ですが、限られた時間の中で天下統一を成し遂げるために、今でいうマーケティングの視点で、戦略的に城を配置していったのです。

2.広告塔としての城
元々の城は「山城」に分類され、土を盛り、堀をめぐらせれば「完成」でした。それを現代人が持つ城のイメージ「石垣に瓦葺きで高層の天守閣」というスタイルに変えたのは織田信長でした。

①小牧山城
初めて自ら築城した小牧山城に信長が取り入れたのは「石垣」です。表面の「石垣」として見える部分には隙間を埋める「間詰石」が、裏側には崩れを防ぐ「裏込石」が積まれています。又、基盤の「根固め」から、排水処理のための「石組み遺構」も発見されています。
これにより「小牧山城を見た敵陣の武将たちが次々に信長に下った」と伝えられるほど、当時は驚異的な建築≒技術+人員力を“見た目”で表し人々を圧倒する構造でした。

②岐阜城
これまで城は戦いの際に詰める拠点であり、瓦が使用されることも、装飾されることもありません。しかし、岐阜城では、牡丹文に形成された瓦を使用し、金箔が施されていた。しかも建物は、平屋建てではなく地下通路を備え、その先に広がる、城下の景色を劇的に見せる仕掛けをもった構造になっていたのです。
岐阜城は信長にとって“おもてなしの空間”。隣国の戦国大名や朝廷、文化人、商人との関係を良好に築くための外交の拠点となった施設だったのです。

③安土城
安土城の「天主」は、外観の瓦層は5層、内部は全7階(地下1階、地上6階)で、外壁は層ごとに黒、朱、金箔、屋根瓦も赤・青・金箔瓦という、岐阜城よりさらに複雑な構造かつ華美な装飾によって城郭が建設されています。それが、後の「天守閣」に繋がる高層建築「天主」と言われるものです。
信長は城を、外観も内観も自らの力を人々に知らしめる広告媒体として作り上げたのです。

「自分の縄張り拡大」という目標では、いつまで経っても「天下統一する」にはたどり着けません。なぜなら「縄張り拡大」での戦略は足元を固めて徐々に広げることになりますが、「天下統一」では信長とったような、全体を俯瞰して重要拠点を押さえるという一段飛び越えた戦略が必要だからです。視点を上げることが戦略を引き上げることにつながるのです。

参考:城びと
信長公の夢街道

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