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2023年02月27日

【教育ってなに?】~教育のあり様を歴史から深掘りする②

■どうすれば教育は良くなる? 教育の向かう先は?

前回の記事では、社会が収束している先に教育のあり様があることを書きました。昔なら、村や部族全体で、どうすれば皆が食べ物を手にすることができるか、村や部族がつつがなく存続していけるかなどが、教育の向かう先でした(狩猟方法を子どもに教える。村の守り神の昔話を子どもにして村の在り方を教える)。ここには村や部族という共同体のための教育があります。これを「集団収束の教育」と呼びます(「収束」は、「それに集中していく」の意)。

(明治以前は農村で集団を重視した教育が行われていた)

一方、近代になると部族や村のような共同体が解体され、国民国家が誕生します。「国家」と聞けば、「国民の集団」を思い浮かべるかもしれませんが、その実は「個人」が集まったもので、部族や村など、成員に一体感のある共同体とは違うものです。

「個人」が生きていくためには個人の利益を優先しなければなりません。必然的に国家は、個人の利益=私権を追求のための教育を提供することになります。それと同時に、国家は、国家を存続させるために必要な教育を行います。「私権を守るためには国土を守ることが必要」「私権を維持するためには税金をなどの富を集めて再配分することが必要」などです。つまり私権と国家統合は表裏一体の関係にあります。これを「私権収束の教育」と呼びます。

私権収束の教育では、親は子どもに「いい学校に入る」ことを望みます。いい学校に入れば、いい会社に入れたり、私権を支配する官僚や役人になれるからです。

(※1 私権という観念は、近代よりももっと以前に誕生していますが、ここでは分かりやすいように近代に絞っています)

(現代の学校制度は私権に収束する教育)

では現在はどうでしょう。「集団」はほぼ解体され、「個人」化はより進んでいます。それでいて私権はどうかというと、以前ほど人々を統合する力はありません(その主な要因は貧困の圧力が低下したからです)。

(※2 「貧困」はそれをどう考えるかによりますが、ここでは、昭和の戦後のように、働けども冬の寒い時期にコート1枚買うことができなかった貧しさを想定しています。食ベ物もろくにありませんでした。社会全体が貧困状態だったのです。現代も「貧困」が取りざたされていますが、社会全体で食べ物がない、着る服がない、なんていう貧困は現代においてほぼありません)

今の時代は、集団収束もない、かといって私権収束も弱まっている。つまり、教育観が各自バラバラになっている状態です(――ここまでが前回の趣旨です)。

■教育には「公教育」と「私教育」がある

教育の分類には「公教育」と「私教育」という分け方もあります。公教育とは国家の制度のもとに行われる教育です。簡単にいえば、現代の学校制度です。ここで誤解のないようにしたいのが公教育」=「公立教育」ではありません。公教育の“公”は国家を意味します。だから私立の学校による教育も「公教育」となります(私学も国の制度の中で規定されているので、“公”の中に入ります)

では「私教育」とは? 端的にいえば「公教育ではないもの」です。学校教育ではなく、親たちが「子どもにはこれを教えたい」と考えたものを子どもに教える教育です。現代では「私教育」はほとんど見られませんが、昔はありました。農民や職人の家庭内の教育、村などの共同体の中で国の統制を受けずに行われた教育などが「私教育」に当たります。

一方、近代の国家は前述したように、基本「私権収束の教育」です(私権圧力自体は弱まっていますが)。しかし、教育制度の設計や運営は国家がコントロールしています。つまり「私権収束の教育」は「公教育」なのです。

(公教育は私権収束の教育)

整理しますと、次のようになります。

公教育=私権収束の教育

・私権を維持するために、国土を守り、国家の富を最適に再分配するための手法や思考を学ぶ教育(→国家統合のために必要な教育ともいえる

私教育=集団収束の教育

・国家とは関係なく集団の中で培われてきた、根本的な世界観や職能(産業・事業を通して世界をどう見るか)を学ぶ教育。言語能力や人間関係をつくる力を育むことを目的とする。(→集団存続・繁栄のために必要な教育といえる

私教育が限りなく衰弱した現在、子どもたちに求められる人間関係をつくる力・言語能力がきわめて育まれにくい状況にあります。公教育でそれを代替できればいいのですが、そうなっていない。結果的に試験で点を取ることばかりに焦点が当たってしまい、子どもたちもやる気が起きないし、学力も薄いものになってしまっています。

(※3 公教育は、それまで村や部族で行っていた教育を「国家」という先に“外注”しているようなものです。個人化が進むと家庭だけでは教育できなくなるからです)

さて、私たちはこれからの教育をどのような方向にもっていけばいいのでしょうか。ここは、未来を見る前に歴史の中に可能性を探ってみましょう。

教育資料が十分に残っているのは江戸時代以降です。特に江戸時代後半は藩校、私塾、寺子屋がありました。江戸時代後半に教育のあり様を探れば、今の教育を考えるヒントや視点が見えてくるかもしれません。特に寺子屋教育は、庶民の識字率が飛躍的に伸びた教育でした。江戸時代末までに日本全国で1万5000を超える寺子屋がありました(下表)。人口は現在の五分の一程度(約25000万人=公家や武士を除く人口)だったにも関わらずにです。

次回以降は寺子屋を中心に江戸の時代の教育を考えてみたいと思います

 

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