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2011年10月03日

共同体社会の実現に向けて【5】 市民運動という騙し、民主主義という騙し(上)

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画像はこちらこちらこちら
からお借りしました。
前回記事「私権時代から共認時代への大転換(下)」では、現実社会を動かしている構造が私権原理(力の原理)から共認原理に変化して、「自分たちの生きる場を自分たちの手で構築してゆく」可能性が開かれていることを学びました
 ところが、大地震や原発事故 、世界的な経済危機 といった本当に大変な事態が重なり、みんながこのままではいけないと思っているのに、社会が良くなる兆しは見えてきません。
社会は相変わらず「金貸しが政治家や官僚や学者やマスコミ等の統合階級を支配し、その統合階級が大衆を法制支配+共認支配している」という状況のままです
 なぜ、社会の基底部では実現可能性が開かれているのに、社会は転換しないのでしょうか
今回は、いつまでたっても、大衆が社会を動かすことが出来ない原因を明らかにしていきます
興味のある方は応援も宜しくお願いします 😀
 

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【市民運動という名のペテン】
過去、’60年安保闘争にせよ、’69年全共闘運動にせよ、大衆の願いは実現された例がない。さらに遡れば、明治維新やフランス革命も同様であって、実現されたのは、金貸し(金融勢力)支配の体制だけであり、それらの革命に身を投じた若者たちは、金貸しに乗せられ踊らされてきただけであった。
それも当然で、すでに序2で明らかにしたように、近代社会を動かしているのは金融勢力であって、決して大衆ではないからである。
従って、「市民運動」は、甘言で染められたペテンであると断じざるを得ない。
しかも、この甘言を信じた結果、多くの有為の若者が出口のない袋小路に追い詰められ、自滅していった。これは騙し、それも、社会変革のすべての可能性の芽を摘み取る、皆殺し的な騙しである。  
  その後、市民運動は、’70年、貧困の消滅(豊かさの実現)を契機に急速に衰弱していった。つまり、市民運動は、貧困の圧力→私権圧力が強いときにはそれなりに盛り上がり、私権圧力が衰弱するや否や衰退していったわけで、これは、市民運動が私権欠乏をエネルギー源にしていたという証である。
私権欠乏に立脚している限り、どれだけ市民運動を続けても、私権社会が永久に続くだけであって、私権社会から共認社会への転換など、実現するわけがない。
同じことは、それらの運動を導いてきた思想についても言える。
マルクス主義を含む近代思想を生み出したのは、金貸し(金融勢力)である。ところが、市民運動の活動家たちも、同じ近代思想に立脚している。
同じ思想に立脚しながら、社会を変革することなど出来るわけがない

<参考投稿>
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フランス革命は、封建制を打倒し、自由・平等・同胞愛の名の下に人権宣言をしたが、本質は、民衆を扇動して王侯貴族らを虐殺させ、旧王朝に代わる権力階級として資本家が誕生、自由市場で放埒な経済行為が繰り広げられる結果となりました。
画像はこちらからお借りしました。
%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95.jpg 民主主義の欠陥2~これまでの市民運動とはなんだったか(戦後編)
’60年安保闘争、’69年の全共闘運動の本質は、反体制・反権力の否定と要求の運動で、社会を変えることが出来ませんでした。
参加した多くの学生の運動への熱は冷め、体制を補完する側に回り市場社会の住人となり今まで否定していた社会に安住していったのです。
画像はこちらからお借りしました。
%E5%8E%9F%E7%99%BA.jpg 民主主義の欠陥4~旧パラダイムで「反原発運動」をしても社会変革はできない~
現在進行形の市民運動と言えば反原発運動ですが、否定と要求の構造は今までの市民運動と変わらず社会を変えることはできないのです。
画像はこちらからお借りしました。

あるいは、こうも言える。市民運動の活動家たちは、もっぱら大衆の意識の変革に期待してきた。逆に云えば、彼らは「大衆の意識」以外に何の実現基盤も持ち合わせていなかった。
しかし、現実の大衆は、金貸しが支配する検定教科書とマスコミによって、ほぼ完全に近代思想に染脳されてしまっており、近代思想に代わる新たな思想なしには、大衆の意識が変革されることなどありえない。
本当に社会変革を実現するには、まず、大衆の意識潮流を掴み、そこにどのような実現可能性があるのかを摘出しなければならない。ところが、彼らは、あたかも大衆に期待しているかのようにひたすら大衆に訴えかけていたが、実は、彼らが大衆の意識潮流を深く追求した痕跡はどこにも無い。これでは、本当の所は、大衆にさえ何も期待していなかったのだと言わざるを得ない。要するに、彼らは、自分に都合のいいイデオロギーを大衆に押し付けようとしていただけであり、彼らに在るのは、甘言で染められた自己正当化のイデオロギーだけであった。  
  大衆の意識を注視し続けていた私は、45年前、活動家たちに対して、マルクス主義に代わる新理論の必要を提起した。しかし、新理論の構築に取り組もうとした者は、(ごく少数を除いて)殆ど誰もいなかった。そして、次々と、大企業に就職し、あるいは学者になっていった。その後、彼らに残されたのは、社会変革に対する深い不可能視だけである。
それだけを見ると、彼らは本気で社会変革を実現する気などなかったようにも見えるが、むしろ、近代思想に代わる新理論の構築は、不可能に近いほどの超難課題であったということだろう。

社会変革を目指す市民運動は、いつも何らかの観念=近代思想を導きとしてきました。それは、自由、平等であったり、個人、権利、福祉であったりしますが、これらは全て近代思想です。同時に、市民運動という運動スタイル自体、「民主主義」(民、自分たちが主人公)という近代思想を疑うことなく信じた行動でもあります。

このような近代思想はどのようにして生み出されたのか。
歴史的には、金貸し=金融勢力が自らに都合のよい近代市場社会を創りあげるために生み出し、広めてきたものです。大衆が自我私権の主体となることを正当化し、市場拡大に主体的に参加させるためです。

こう考えると「市民運動」の根本的な矛盾に行き当たります。
近代~現代の社会は、金融勢力が近代思想で大衆を共認支配することによって動かされてきました。そうした社会を、同じ近代思想に立脚した市民活動家や大衆がいかに行動しようとも、変えられるわけがありません。むしろ金貸し(金融勢力)支配体制の補完物になるだけ、踊らされているだけであり、はじめから自滅的な構造に陥っているとも言えます。
<参考投稿>
学者・官僚・マスコミは、骨の髄まで金貸しの手先
社会運動の自己欺瞞
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人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなるフランス革命の基本原則を記したもの。

画像はこちらからお借りしました。

%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80.jpg【アメリカ 独立宣言】
「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、後の思想に大きな影響を与えた。

画像はこちらからお借りしました。

【金貸しの暴挙にお墨付きを与えるだけの議会】
今、改めて、大衆はなぜ現実に社会を動かすことが出来なかったのかを総括すると、その原因は、大きく分けて二つある。
まず一つは、すでに序2で明らかにしたように、古代であれ近代であれ、私権社会は力の原理によって統合されており、力の頂点に立つ武装勢力や金融勢力が、官僚や神官(学者やマスコミ)を支配し、彼らが大衆を法制支配+共認支配することによって、現実世界を動かしているという厳然たる事実である。
従って、この支配構造を突き破るためには、その力の原理をも根底から解体してゆく新しい統合原理の実現基盤が発掘されなければならない。
その実現基盤こそ、’70年貧困の消滅によって実現された、私権原理から共認原理への転換である。
  しかし、それだけでは不十分で、大衆が社会を動かすことが出来なかった原因はもう一つある。
それは、人々の変革期待をそこに収束させ、封印してきた議会と民主主義である。
上記の支配構造において注目すべきは、古代も近代も、支配構造が基本的には同じであることだが、さらに注目すべきは、その中での古代と近代の違いである。
古代と近代の一番大きな違いは、社会の統合力=制覇力が、武力から資力に移行したことだが、もっとも注目すべきことは、それに伴って、議会が登場したことである。
では、学者やマスコミが近代民主社会の象徴or要として称揚して止まない議会というものは、社会統合の仕組み上、どこに位置しているのか?
古代と近代の二つの時代の統合=支配の仕組みを図解化してみれば分かるが、驚くべきことに、議会は王侯・貴族と、まったく同じ位置にくる。
しかし、改めて考えてみれば、近代でも実権は官僚機構と教宣機関(大学とマスコミ)が握っており、議会は、王と同じく、名前だけのお飾りになっていることは周知の事実である。  
  市場社会では、本当の権力は金融勢力が握っている。金融勢力が官僚と学者とマスコミを支配し、彼らを通じて大衆を近代思想に染脳した上で、その大衆に選ばせたものが議員である。当然、左も右も金貸しの操り人形ばかりとなる。
したがって、議会とは、金貸しの操り人形たちの演舞場に過ぎない。
したがって、民主主義の建前上「国権の最高機関」たる議会の役割は、当然のことながら、金融勢力の暴走行為にお墨付きを与えることだけとなる。
事実、議会は中央銀行制度をはじめ、第一次・第二次大戦、バブル経済等、すべての主要な局面で、金融勢力の暴走にお墨付きを与えてきただけであった。

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しかし、民主主義を名目に大衆が選んだ代表である以上、全ては大衆の責任であることを隠れ蓑に、金貸しは資本力によって議会を牛耳り、金貸しの利益となる制度を次々と確立していったのです。
近年でも、議会は中央銀行制度、大量の国債発行、金融規制緩和など様々な法案を通し、バブル経済を推進してきたことは、結局、金貸しの傀儡として彼らに利益を誘導したに過ぎません。
マスコミ・学者が政治家批判を繰り返し、大衆もその扇動に乗じて政治家に矛先を向けていますが、彼らはただのお飾りであり、共認支配・法制支配の実権を握っているのが、金貸し支配された学者・マスコミ・官僚である以上、大きく的を外していることになります。
写真はこちらからお借りしました。
<参考投稿>
経済破局を超えて、新しい政治経済の仕組みへ:第7回 日本の政治を動かしているのは政治家ではなく官僚だ!

いままでの内容を図解化すると以下のようになります。
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現実社会を動かしている構造が私権原理(力の原理)から共認原理に転換し、大衆の変革期待は高まっています
しかし、その変革期待に応える社会理論が近代思想しか存在しておらず、大衆の変革期待が全て近代思想(民主主義)に飲み込まれてしまうのが、社会が変わらない原因です

 近代思想の本質は、個人の私権追求を正当化し、金貸しに権力が集中することを正当化する事です。だから、大衆の変革期待が近代思想に集まれば、金貸し支配を変革するのではなく、金貸し支配を継続させる事になります。

 これまでは、社会を変えるというと選挙で政治家を変えることや、市民運動で大衆の権利を主張することだと考えてきましたが、それは的外れなのです
社会の変革は、近代思想に変わる新理論の構築や、地に足をつけた共同体企業の建設によって実現するのです

 金貸しにだまされて、みんなが近代思想に洗脳されていることが、社会が変わらない原因ですが、次回はその近代思想の中心にある民主主義の問題についてさらに詳しく追求します。
民主主義は正しいと信じ込まされてきましたが、これが大きな誤りであったことに気づく目から鱗の内容です。ご期待ください 😀

 

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