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2012年06月07日

『企業の進むべき道』7~閨閥の歴史に迫る その3:地方豪族のネットワーク☆~豪閥☆*:・°

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今回は、『閨閥の歴史に迫る その1:政界を牛耳る歴代宰相・政治家~高級官僚閨閥~』 『閨閥の歴史に迫る その2:財界編~』と続いている閨閥シリーズの第3弾です
 
今まで扱ってきた、 「政界」「財界」に続いて今回は、地方豪族の閨閥=豪閥についてご紹介したいと思います
主に政・財の閨閥づくりは首都圏を拠点に繰り広げられてきましたが、地方ではどのような閨閥作りが行われているのでしょうか 🙄
 
地方豪族を調べる中で、2パターンの豪閥があることがわかりました。今回は、その中で代表的な2つの家系についてご紹介します
地方に拠点をおいた『伊勢の山林王☆諸戸(もろと)家』
地方から中央支配を狙う『信州・長野を本籍とする小坂家』です
 

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◆伊勢を拠点に産業拡大を続けてきた~諸戸家
 
◇地方豪族のキーステーションとしての「諸戸家」
 
%E6%A1%91%E5%90%8D%E8%8F%96%E8%92%B2.jpg著名閨閥の形成は、地方豪族と中央の旧華族などの名門家系との組み合わせ、もしくは中央の名門家系を“核”として地方に根を張る豪族同士が結合し合うことによってつくり出されていくケースが多くあります。
  
その地方豪族を中心とした閨閥ネットワークの中心となっている諸戸家の生地である伊勢の国とはどういった背景をもっているのでしょうか
(写真は、諸戸氏庭園。リンクより。)
 
◇伊勢の国について☆
伊勢の国は、「日本書紀」では美し国(うましくに) と称され、7世紀の孝徳天皇の時代に、伊勢国造(伊勢氏)の領域を中心に成立しました。国造(こくぞう・くにのみやつこ)とは、古代日本における地方官で、軍事権・裁判権などを持ったその地方の支配者のことです。出雲大社社家(旧出雲国造)や藤原氏(旧紀伊国造)など、国造としての地位を確立した社家の血筋は現在まで続き、伊勢国造の子孫である伊勢継子は、平城天皇の妃となり、源頼朝、足利尊氏等、その血筋は現在まで繋がっていきます
 
隣国には、織田信長・豊臣秀吉を生んだ尾張があり、対岸には、徳川家康・多くの大名を生み出した三河があります。江戸の樹立により、城下町であった尾張(名古屋)は日本十大都市の一つとしての色を呈し、明治維新によって中央集権国家が形成されると、名古屋は明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在の巨大都市となっていきます。
 
歴史から見るに、古代より多くの地方豪族がこの地から誕生し、横に広がった閨閥を形成してきたようです。
 
その伊勢、桑名から出て、中京の名だたる豪族を閨閥地図の中に織り込み、東海道を東上して中央の政財界に活躍する実力家系、しかも広範囲にわたって有力財閥にネットワークをはりめぐらしたのが、わが国の「山林王」と言われる諸戸一族です
 
%E3%82%82%E3%82%8D%E3%81%A3%E3%81%A8.jpg◇諸戸家とは?
諸戸一族のこの冨の源は、初代清六に遡ります。父が庄屋まで務めていた旧家諸戸の家をつぶしてしまったことで、清六は、勤倹節約を実行し米の売り買いを主に行い、わずか二年ほどで父のつくった借金を全部返済します
(右の写真は、初代 諸戸清六 リンクよりお借りしました )
 
明治5年には、三重県令 岩村定高と知り合い、政商的な色彩を強め、大隈重信・松方正義、品川弥二郎、大倉喜八郎、渋沢栄一、森村市左右衛門らと親しく付き合うようになっていきます
その後、西南の役では、米相場で大儲けし、大蔵省御用の米買方となり、明治十六年頃から土地に手を出し始め、田地田畑に始まり、東京恵比寿から渋谷、駒場に至る住宅地30万坪を買いまくったそうです。渋谷から世田谷まで、他人の地所を踏まずに行けたと言われるほどです
また、同時に上水道の整備も行い、当時全国で7番目という早さで、桑名町内三十箇所以上に消火栓を設けました。
明治20年代に土地の買い占め、上水インフラの整備までした功績が現在の諸戸家の礎を作っています。
 
二代目になると、政治家・財界人との繋がりを強めるようになり、タオル事業証券会社の設立など、諸戸家の事業をさらに発展させていきます こうして、諸戸家は、林業を中心に広く業種を広げていくようになります
 
二代目精太の息子:精文の妻、綾子の母は元大蔵大臣で三井の大番頭であった池田成彬の妹です。そのため、三菱大番頭の加藤武男元三菱銀行頭取、藤山雷太、福沢諭吉、中上川彦次郎といった、わが国の資本主義の“源流”の人脈らの閨閥地図の中に組み込まれています
 
◇諸戸家の閨閥づくり
こうして、伊勢の山林一族の諸戸家は、地元の雇用創出・産業発展に貢献する中で、真珠で有名な御木本一族、華麗なる一族で有名な岡崎一族、名古屋出身の服部一族、高橋一族と、中京の地縁で結ばれる名だたる豪族と複雑な閨閥関係を結びながら、長野から九州に至る“豪族”を網の目のように結んでおり、その規模の大きさは日本一の大閨閥と言えます
クリックすると拡大します
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(『閨閥-日本のニュー・エスタブリッシュメント(佐藤朝泰 著)より』)
                                  
 
◆信州から中央支配を狙う地方豪族の閨閥集団~小坂家
   
◇中央を目指した小坂一族の積極的な閨閥づくり
 
%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E7%95%91.jpg信州・長野県を本籍とする「小坂一族」
は、いわゆる地方豪族というイメージがぴたりと当てはまります。
小坂家とは、信州松代から千曲川を約10キロほど下った、かつての水上内郡柳原村に十数代も前から続いた北信きっての豪農です。
また、明治維新までは里正を務めた名家でもあります。代々松代藩から千曲川の堤防取締役を仰せつかり、長野市柳原にある小坂邸は、千曲川に連なるリンゴ畑の中にあり、古い歴史を持つ“豪農”のたたずまいを持っています。
(写真はリンクより。)
 小坂家は、地方豪族ではありますが、他の多くの地方豪族が、自分の支配する「地域」の中に固くとじこもり、どちらかといえば「中央」に意識的に背を向けて、地域内の政治や経済圏の中に君臨し、牛耳っているのに比べ、小坂家は、政治の面ばかりか経済(事業)の面においても「中央」と密接に結びついており地方豪族の中央進出、そして定着化を果たしたまれな成功例です。
従来の地方豪族は閨閥的にも地域に密着していますが、小坂家は三井や三菱といった中央財閥一族との積極的な閨閥づくりに専念しています
 
◇小坂家とは?
小坂家は、先代善之助つまり小坂順造の父の代に至り、現在の小坂家繁栄の礎ができました。この善太郎、徳三郎兄弟の祖父である善之助は、進取の気性に富んだ優秀な人物だったと言われています
 幕末の時、京都に出て学問を学び、帰郷後、信濃銀行(後に安田銀行に合併される)長野電灯、信濃毎日新聞社など、各分野にわたる数多くの事業を育て上げ、 「長野に小坂あり」の名を全国にとどろかしたそうです。
%E3%81%93%E3%81%95%E3%81%A3%E3%81%8B.jpg 小坂順造:明治14年3月30日生まれ。
  東京高等商業学校(現在の一橋大)を卒業後、日本銀行に勤務
  26歳のとき、父・善之助が病に倒れたので、事業を引き継ぐ。
  (善之助が倒れたのは、信濃銀行の経営破綻が原因。)
  明治41年 27歳 信濃銀行取締役        
  明治44年    信濃毎日新聞社社長に就任
  (政治に手を染めたのは)
  明治45年 衆議院選に出馬し当選。
    以後、当選を重ね後には貴族院議員、枢密顧問官にもなった。
   (写真は小坂順造氏。リンクよりお借りしました。)
  
 
小坂家は父子三代、つまり善之助、順造、その弟の武雄、そして善太郎、徳三郎兄弟の
この三代五人で、明治23年に初めて国会が開設され、善之助が当選して以来、両院どちらかの議席を必ず占め、国会史90年間の間、一度も空席がない と言います
 代々連続して議席を保持している家系というのは、小坂家をおいて他にはないのではないでしょうか。 
 
%E5%BF%97%E4%B9%85%E8%A6%8B%E5%B7%9D%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80.jpg◇順造の本領は、「電力人」
梓川電力・長野電気・信越化学の自家用発電所の志久見川発電所を築き上げた二代目順造は、昭和29年~31年の間、電源開発総裁を務めました。
(ちなみに、そこでの発電量は五大電力に次ぐものだったといわれ、その電力は東京電力に売っていたそうです
(写真は志久見川発電所 リンクより。)
このような権力をもっていたからこそ、順造は、小林一三、松永安佐衛門、鈴木三郎助ら、当時の財界に君臨した電力人と対等に付き合えたのでしょう。
 
その順造の信条は、「政経二分論」だといいます。弟の武雄を地元信州に土着させて、信濃毎日新聞、信濃電気精錬、それに長野電鉄などの経営に専念させ、中央政財界で活躍するものと、現籍地の地盤を守るものを明確に分離してきたのです。
 また、その考えは順造の長男・善太郎が政治の世界弟の徳三郎を財界人に育て上げたことにも見ることができます。徳三郎は、新聞記者を辞め信越化学社長に就任して以降、押しの強さを武器に財界活動に精を出し、経団連・日経連・同友会などを舞台に、縦横無尽の活躍を見せ、若手財界のホープとして刮目されていたといいます
ちなみに、
順造の妹 はるの嫁ぎ先・・・元日銀総裁深井英五(二・二六事件当時の総裁)
   その下の妹 国・・・・旧川崎財閥系の第百銀行頭取に嫁いでいます。
他にも妹がいますが、合わせて5人の妹の嫁ぎ先がそれぞれ名家でその拡がりは果てしないことからも、小坂家の家系は、まさに、閨閥作りの典型といえます
 
◇マスコミ人とも繋がる閨閥
小坂家の閨閥地図の中に、天下の言論界を二分する朝日新聞読売新聞のオーナー社長たちの家系が並びます
小坂家は、単に信州の一地方豪族という枠から大きくはみ出し、旧華族はもとより旧財閥や名門学者、日銀総裁、そしてマスコミの家系を閨閥の中に取り込み、中央政財界を支配する家系の一種を担っています
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(『閨閥-日本のニュー・エスタブリッシュメント(佐藤朝泰 著)より』)
~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * 
 
◆最後に
 
「伊勢を拠点に産業拡大を続けてきた~諸戸家」
「信州から中央支配を狙う地方豪族の閨閥集団~小坂家」
 
以上2つの家系をご紹介してきましたが、豪族と一言にいっても今は、小坂家のように地方にもその根を残しながらも、すでに東京や大阪を本拠地にしている一族が少なくありません。豪族に連なる茶道王国の“千家”や、河北一の新聞やテレビを支配する“一力家”など、錚々たる名家がそれにあたります。
%E5%8D%83%E6%9B%B2%E5%B7%9D.jpg地域に根ざし、地元の雇用を創出し、その地に支えられて発展してきた地方豪族ですが、あまり中央との関係作りばかりを強化してしまうと、肝心な大衆との意識の乖離が危惧されます。(写真は千曲川 リンクより。)
 
単なる私利私欲の追求ではなく、村落共同体の一員として仲間の期待に応えることを活力源とし、その地を基盤として発展してきた地方豪族は、これから何が起こるかわからない世の中で本当の強さを見せるのかもしれません
 
(るいネット)
地方豪族の権力を剥奪し、国家の中央集権化を図るために導入された“試験制度”
中央集権=官僚国家を拒んだ日本
共同体を組み込んだ支配体制が江戸の社会構造①
共同体を組み込んだ支配体制が江戸の社会構造②
 
参考資料:
『閨閥-日本のニュー・エスタブリッシュメント(佐藤朝泰 著)』
『豪閥 地方豪族のネットワーク(佐藤朝泰 著)』

 

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