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2012年12月28日

『共同体経営とは?』5-2 ~日本の村落共同体とは?② 闘争と生殖を包摂した集団

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画像はコチラからhttp://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/gt_japan_people/gjp_gal_large/images/gj20714.jpg
こんにちは!
一週間空きましたが、日本の村落共同体続編です。
前回記事では、江戸時代における日本の村落共同体に注目して、「主体性の高さ」に焦点を定め、以下の点を明らかにした上で考察をしてきました。
・村の自治形式
・村役人と農民との関わり
・土地と年貢の自主管理体制
・村八分
・ゆりかごから墓場までを村全体で見守る体制
これらを調べる中で、非常に興味深い集団としての特質が浮かび上がってきたので、今回はそこに焦点を定めて記事を書きたいと思います。
気になるその特質とは・・・
 

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日本の村落共同体は「闘争(職場)と生殖(家庭)を包摂した集団」であったということです
なんだ、そんなことか・・・、と思うような結論かもしれません。しかし、これを現代社会(特に都市圏)に生きる人で実体験をもって知っている、という人はほとんどいないと思われます。近しい状況を共有できる場は今でもあるかもしれませんが、それらはどうしてもどちらか一方に寄ったものになっているのが実情ではないでしょうか?
では、実際にどのような状況で日本の村落共同体は「闘争と生殖を包摂」していたのか、その歴史を覗いていきましょう。実は、その中にこそ、次代の共認統合の可能性と共同体経営の可能性を開いていく重要な手がかりがあったのです。
 
 
■闘争と生殖を包摂した集団
日本の村落共同体、あるいは江戸の城下町(町人文化)においても、基本単位は家族では無く自治集団に置かれていた事が解ってきました。そして、この集団を形作っている基本構造(成立条件)は、「闘争と生殖を包摂した集団」にあります。現在でも、このどちらかが欠けてしまえば、種としての存続は絶たれてしまいます。しかし、これらが分断した形で成立しているのが現代の姿。家庭と職場という、それぞれ別の場所に分断された形は、近代以降に形成された特殊な形だったのです。
では、「闘争と生殖を包摂した集団」とはどの様な生活様式であったのか、引用を混じえながら詳しく見ていきましょう。
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画像はコチラからhttp://suido-ishizue.jp/daichi/part1/02/07.html
日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ
より抜粋~
 


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画像はコチラからhttp://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/05jinkaishu.html
 太閤検地(1582~1598) により、一地一作人が原則化されたという。これが「家族を単位として耕作を行う近世農村」を形成した。村落はむしろ、近世に家族とともに成立したものだ。村落の皆婚化はその付帯状況だった。
 別の言い方をすると、太閤検地以前の村落は、現在の日本人が、田舎なり、昔の村落と思っているものとは異なっていた。どのようなものだったか。
 この傾向は江戸時代に一層強まった。まだ江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が見られたが、時代の進展とともにこれらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっていった。
(中略)
 さらに言うと、そもそも結婚というのが、少なくとも庶民的には存在しえない社会構造だった
 そうは言っても、男女の性交はあり、子どもは生まれていたことは間違いない。では、家族なくして、子どもはどういう状況で生まれて、どう生育されたのか。
(中略)
たとえば、「塵芥集」では男の子は男親の主人が、女の子は女親の主人が取ることを決めている。また「結城家法度」ではそれが原則ではあるが、一〇歳、一五歳まで育てた場合には、男女とわず育てたほうの親の主人がその子供を取るべきだと既定している。
(中略)
 地域によって法のあり方は異なるだろうが、
(中略)
 いずれにせよ、江戸時代初期までは、日本の社会の多数の庶民には、父子の関係は薄く、母子の関係はあっても家族はない。同書は簡素にこう描く。
(中略)
 江戸時代初期になって村落の世帯分化と皆婚化とで家族が形成されていく。氏族集団を一地一作人的な家族の集合に変化させ、見合いというか性交・婚姻・出産のシステムがかつての氏族内の機能を代替していったのである。 
~抜粋終わり

 
 
どうやら現代の家族形態の始まりは、江戸時代初期以降に形成された規範の延長上にあるようです。それ以前の時代は氏族単位での生活が基本だったのですね。江戸時代以前(戦国時代)は、各国の戦国大名たちが武士や民衆を規制するため、領国内でのみ成立する分国法という法律規範を定められていましたが、
(ex. 今川氏=今川仮名目録、武田氏=甲州法度之次第、伊達氏=塵芥集etc.)
引用文にもあるように、それらの多くには子どもの配分のルールを決めた項目があったそうです。その項目は、主人の違う男女の間に生まれた子どもの配分に適用されるものではありつつも、子どもは集団の財、「子宝」であるという概念が、文字通り集団に根ざした言葉として存在していたのだろうと推察されます。
では、家族以前の時代における日本の村落共同体の男女規範、つまり婚姻様式は実際どのようなものだったのでしょうか?
さらに詳しく遡ってみましょう。
日本史上の、農民はどのような婚姻形態だったのか?
より抜粋~
 

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画像はコチラからhttp://yamayam.exblog.jp/4510038
 
「日本婚姻史」高群逸枝著など、婚姻の専門書を読んでも、
 
 
①集団婚(族内婚→族外婚)(≒縄文時代)
②渡来支配人が母系集団の女に通う妻問婚(≒弥生大和飛鳥)
③母系集団に男が住み付く婿取婚(≒平安時代)
④母系集団から女を引き出した嫁取婚(≒鎌倉時代)
⑤個人が結婚の主体と成る寄合婚(明治・大正・昭和時代)
 
 
とあるが、対象は支配者層の婚姻制度であり、大衆には、<嫁取婚が一般にも広がった>と、最後に記載されている程度で、農民たちは、どうだったのか具体的なイメージが出来なかった。
(中略)
支配者層は、④母系集団から女を引き出した嫁取婚(≒鎌倉時代)、に突入している。いよいよ父系文化が強力と成り、「家父長権」「家」などの普及が始る。
  
つまり、武力により土地を支配した支配者層は、父系を強めて家父長制度をより強固にする事で、その身分や富の継承を行ったのである。
 
一方で、農民である。
この頃の鎌倉時代には、農機具の発達、水利土木技術の発達などにより、稲作は集団を組んで対処することで生産性を飛躍的にUPする事になる。そして、乱世には自力で防衛まで行い、支配者からの過大な納税には一揆で対抗するまでになる。このようにして、課題を集団で対処する事で成立する日本の「稲作」が成立した。その農村自治共同体(惣村:ソウソン)は、より高い農業生産性の確保の手段である。
 
 
この、惣村と言う「日本稲作システム」は、水利や田植や稲刈り等などのたくさんある集団課題を、惣村の皆で対処する事で始めて、高い生産性を確保出来るシステムである。よって、ここでは「私有」意識は極端に低くなる
 
 
農民は、納税の為の戸籍や、支配者層から文化で、「一対婚」や「家父長」「家」制度を受け入れたが、支配者層のように継承したり守ったりする「私権」が殆どない。農業継承するのに守るべきは、集団で対処すると言うシステム、つまり惣村と言う共同体の文化そのものである。農地を持っているだけでは機能しないのである。よって、私有権<共有農業となっている。
  
鎌倉後期に発生した、「惣村」と言う集団生産システム(=村落共同体) は、日本史上最大の分岐点かもしれない。欧州や中国大陸など私権制の強い文化である「父系性」「一対婚」に染まらずに、母系制文化を継承しながら、集団性の高さを誇る「日本文化」を現代に伝える分岐点である。
~抜粋終わり

 
 
日本においても、徐々に集団私権の発生過程が垣間見えてきますが、それでも尚、集団作業に重きを置く生活文化が土台となっていたことが伺えるため、大きくは共同性の中で生産システムが維持され、生産体としての集団(村落共同体)が形成されてきた歴史が根付いていた事が解ります。
 
その共同性に重きを置く集団のあり方が、婚姻形態を一対婚に全転換させなかった要因だと考えられます。ただ、支配者層の文化を一旦受け入れている点が、日本の村落共同体らしい体質だな、とは思いますが。
 
いずれにせよ、支配者層の婚姻形態が変化しても、農民たちは婚姻形態をいきなり変えるということはしなかったことが伺えます。では、どのような婚姻形態だったのでしょうか?
 
特権階級は早くから私婚化が進み、現在につながる一対婚の系譜が表れていますが、実は庶民の婚姻規範は殆ど知られていません。制度以前、つまり集団規範によって、村毎に実に多様な「夜這い」の風習が見られたのですが、明治以降の市場開放圧力によってジワジワと解体されていったのです。
共同体では、必要なモノは全て自集団内で賄うのは当然のこと。婚姻も、そういった集団内において、成員みんなが充足できる仕組みとして構築されていました。しかし、それでは市場が拡大しない。そんな一部の思惑によって、尽く解体されてしまったのです。
 
この「夜這い」の風習は、実に豊かな人間関係を想像させてくれます。文献も少なく、今にも風化してしまいそうな史実ですが、共同体の在り様を探る上でとても重要な文化だと思います。興味のある方は、是非下記参考投稿を熟読してみて下さい。きっと、性に対する価値観が180度転換します♪
 
●大らかな性について、当時のムラの様子がよくわかる☆
るいネット
赤松啓介
 
●共同体社会と人類婚姻史ブログより
『日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ』「夜這い婚って何?」
 
「性の探求者」シリーズ② 赤松啓介に見る性の追求 ~日本人のおおらかな性~
 
「夜這い禁止令」というものは、明治~大正~昭和にかけて、繰り返し発動されたのですが、そんな中でも『皆が充足する大らかな性である夜這い』は、一部地域では昭和初期まで行われていました♪
 
●娘達の会話から、近世までの性意識がよくわかる投稿
 こんな感じで性は開かれていた☆
るいネット
戦前まで行われていた夜這い婚~娘宿でのオシャベリはどのようなものだったか~
 
性は日常の活力源☆とってもみんなに開かれていた!
 
いかがでしょうか。価値観に囚われず、史実として見ると、実に人間的な豊かさ、素直さを感じ取ることができます。本来のあるべき姿、本源性は私たちの身近なところに、しっかりと実在していたのですね♪
家族・共同体とは、生産も消費も性も養育も担う安心・充足機能実現態。だから、潜在的な「帰農」を促す?!
より抜粋~
 

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画像はコチラからhttp://saito58.at.webry.info/200901/article_8.html
 
 日本の社会で、現在職業や仕事と言われているものは、実は家族がやっていた役割を専門分業化したものです。これは意外と皆さんが気付いていないことです。
(中略)
家族の持つ機能
1.生産共同の機能(役割)
2.消費共同機能
  *家族の中では「私有制」が作動しない事がある。
3.性的欲求充足機能
4.子どもの生殖と養育機能
5.生活拡充機能
6.精神的安定機能
(中略)
 家族機能の一部を外部化しようとしている近代社会・産業社会で、家族の愛を維持していくのは非常に困難です。だからこそ、今、人々は古い家族のにおいが残っている故郷や農村にあこがれているのです。
(中略)
 産業社会では家族単位で農業をしているよりも、家族やムラから若者をバラバラにして学校に集め直し、(工業製品を)作らせます。そのほうが生産性が高くなるからです。
 社会の近代化と言うのは、家庭の持っていた生産共同機能と生活拡充機能を、製造業やサービス業として専門分化したものと言えます。
~抜粋終わり

 
 
逆に言えば、集団内で賄い切れないものだけが、市場という交換取引の場で商業化されていた、と言えそうです。すなわち集団を解体するほど、市場は拡大しやすくなる、という形で近現代のシステムが構築され、広く推進されてきたのではないかと考えられます。しかし、今や市場は崩壊前夜。改めて、本来的な集団の在り様を歴史から学び取る必要性が高まってきていると思います。
 
日本のムラ(機能的村落共同体)のすごさ
より抜粋~
 

 日本のムラでは、ただ単に家族、親族、近隣の人たちが相互に助け合うという本源的な相互扶助を行なっているだけではありません。ある共通課題に対して、ムラ中が集団的にまとまり、資金調達も含めて組織化され、高度な計画を作り、井戸やため池、林道、農道、ついでに集会施設や学校まで作ってしまいます。そのための共同訓練も、ムラでは日々行なわれてきました。それは、田植えや稲刈りの共同作業だけでなく、溝さらえや道普請の共同苦役であり、共有林の共同下刈りでした。その活動資金として、村落費も徴収します。ムラがひとつの法人的性格を持ち、ある目標に向かって機能的に動きます。
 日本のムラは、非常に発達した地域機能共同体だと言えます。(中略)
 このムラの機能的共同原理と行動様式を、日々子どもたちや若者に継承し、訓練するための仕組みがあります。それが祭りです。(中略)
 ムラが壊れるということは、単に農業や農村が衰退していくことではありません。日本人が、日本社会の持っている機能的共同性が、弱体化することなのです。
~抜粋終わり
 
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画像はコチラからhttp://photozou.jp/photo/show/339404/122449861

以上に見てきたように、実は日本の村が保持してきた共同性は、現在の本源回帰を導く上での土壌として非常に重要な意味を持ちます。急速な近代化が進む一方で、かろうじて残されてきたこの「共同性」こそが、「共認の時代」の実現基盤となるのかもしれません。
■まとめ
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画像はコチラからhttp://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/gt_japan_people/gjp_gal_large/images/gj21003.jpg
 
いかがだったでしょうか?
二回にわたって、日本の村落共同体について考察してきましたが、現代における本源回帰の基盤が見えてきたでしょうか?こんな世界が、私たちの住む日本の日常風景であったことを想像すると、現代の価値観で生きる我々にとっては軽いカルチャーショックですよね(笑)。しかし、確実に存在した事実であることを、先ずは受け止めなければいけないと思います。わずか140年前(厳密に言えば1930年代頃)まではこれが日常で、今はその価値観自体が野蛮に思えてしまうということを。
 
こうして私たちが生きる日本の村落共同体(集団)の歴史を振り返ると、現代の価値観がいかにつくられてきた(輸入されてきた)ものかがわかります。その違いだけでも認識していただければ幸いに思います。
 
しかし、歴史を学ぶ上で重要なことの一つとして、「伝統は創作の出発点であり得ても、回帰点ではない(篠原一男)」ということが挙げられると思います。歴史の中で出会う言葉(形など)に現代の意味をあてはめてはいけない、という教訓のようなものです。本ブログ記事で何度も書いてきた「村」という単語一つとってみても、当時の人と今の私たちが解釈する意味とでは、微妙にニュアンスが違うかもしれませんしね。現に、ここまで挙げてきた日本の村落共同体の日常風景は、現代の価値観(フィルター)を通してみれば戸惑いを覚える人が多いということも事実だと思います。
 
私権統合についても同じことが言えるのではないでしょうか?私権統合は、過剰刺激による物的欠乏の肥大化に支えられ、飢餓(≒貧困)の圧力に基づく絶対的な私権圧力が働かなければ成立しないことは、前回までの投稿で確認したところです。しかし、その圧力が衰弱してしまったのも事実。生きる上での前提条件に変化が現れた今、いきなりこの先をどうする?を考えても、おそらく未来は見えてきません。先ずはその出発点(創作の土台)を探り、その上で次代の可能性を考えていく必要があると思えてならないのです。
 
ここまで日本の村落共同体の記事を書いてきて伝えたいメッセージは、歴史を知り、そこにタイムスリップすることではありません。この激動の歴史の先に一つ一つ更新・塗り重ねていくための出発点(考えるための土台)を共有することにあったのです。そして、その出発点(集団の本源性の基盤)がまさに共認統合・共同体経営を考えていく上での土台となり得ることを教えてくれたのでした。
 
 
そして、現代社会における生産体としての集団は何でしょう?
もちろん、ここで挙げてきた村落共同体ではありません。
 
そうですね。いよいよ「企業」の登場です。
次回記事では、村落共同体を母胎として古来より脈々と受け継がれてきた本源性を有する日本が、どのように企業経営の土台を構築してきたのか、その歴史を振り返ってみたいと思います。日本には、世界の常識とはちょっと違った面白い経営の在り方があったのです。
 
それでは次回をお楽しみに
 
 
 
 
参考・引用文献&参照記事
・「百姓の力――江戸時代から見える日本」(渡辺尚志:著)
・「住宅論」(篠原一男:著)
村落共同体の規範について
江戸時代の村落共同体のありよう(1)~農民自治の広がり~
江戸時代の村落共同体のありよう(2)~村の多様な役割~
江戸時代の村落共同体のありよう(3)~領主との関わり
江戸時代の村落共同体のありよう(4)~村どうしのネットワーク~
江戸時代の村落共同体のありよう(5)~貨幣経済の浸透~
江戸時代の村落共同体のありよう(6)~豪農も共同体を守った~
江戸時代の村落共同体のありよう(7)~主体的な勉強意欲の秘密~
先人の知恵は自然科学だけではない

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