2013年02月03日
『共同体経営とは?』10~民主主義の欺瞞性☆~
今や大半の経営者が、意識的にor無意識的に社員の活力アップ⇒企業の共同体化 を志向されていますが、なかなかうまくいかないことが多いと思います。
では、共同体化の最大の敵、企業の共同体化を阻んでいるものは何かをみなさんご存知ですか?
『共同体』と一見似ているようで、でも根本から全く違うもの、『民主主義』なのです!
では、なぜ、民主主義が共同体化を阻むのか 🙄 ぜひぜひ続きをお読みください
◆合意をでっち上げることができる民主主義
まずは民主主義のご紹介ですが、民主主義とは合意をどうとでもでっちあげることができるってご存知でした
『民主主義の真実! “とまどえる群れ”と “合意のでっちあげ”』より引用します。
(引用開始)
民主主義社会には2つの市民階級が存在する。
第一の市民階級は、専門知識を持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。これらの人々は人口のごく一部でしかない。
この特別階級から漏れた人々、すなわち人口の大部分を、リップマンは「とまどえる群れ」と称した。
さて、これで民主主義社会には2つの「機能」があることになった。責任を持つ特別階級は、実行者としての機能を果たす。その一方のとまどえる群れも一機能を担っている。民主主義社会における彼らの役割は、リップマンの言葉を借りれば「観客」になることであって、行動に参加することではない。
しかし彼らの役割をそれだけに限るわけにもいかない。何しろ、ここは民主主義社会なのだ。そこで時々彼らは、特別階級の誰かに支持を表明することが許される。これを選挙という。だが、いったん特別階級の誰かに支持を表明したら、あとはまた観客に戻って彼らの行動を傍観する。
われわれ(特別階級)はとまどえる群れを飼いならさなければならない。とまどえる群れの激昂や横暴を許して、不都合なことを起こさせてはならない。これは3歳の幼児に一人で道路を渡らせないのとまったく同じ論理である。面倒を起こすに決まっているのだから。
そこで、とまどえる群れを飼いならすための何かが必要になる。それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」である。
どうしたら第一の階級につけるか?もちろんその方法は「真の」権力者に仕えることだ。
またリップマンの代表作と言われている『世論』(1922年)によれば、彼は、民主主義の基盤となる国民の世論が、マス・メディアの圧倒的な影響力の下にあることを指摘している。
(民主主義理論の代表格、ウォルター・リップマンの考えをチョムスキー著の『メディア・コントロール』より)
(右上の写真はウォルター・リップマン(リンク)より)
上記引用中には3つの階級がでてくる。
1. 「真の」権力者: 支配的な財閥
2. 第一の市民階級(特別階級): 政治家、官僚やマスコミ、経営者
3. 一般の人々(大衆)
アメリカの民主主義の状況は、リップマンの理論・考え方がそのまま実現しているような観を呈している。財閥のための、特別階級(政治家、マスコミや経営者)の手による、大衆をコントロールするための民主主義。といえる。実際、ロックフェラーなどの財閥が、CFRや各種シンクタンクなどの回転ドアを作って特別階級を作り、人材を政界・学会・マスコミ・経済界などや各分野に配分し、アメリカをコントロールしている。
このように見てくると、アメリカが宣教師のように“民主主義を世界に広める必要がある”といっている意味がよくわかる。要は彼らの支配体系(財閥→政治家・マスコミ→大衆)に組み込みやすいからなのだ。彼らは、20世紀の初頭にこの支配体系を開発し、それでアメリカをコントロールした。第2次大戦後、日本が民主化されたのも当然この体系に組み込むためだ。
(引用終了)
参考:『世論操作の方法 :「とまどえる群れ」をどうコントロールするか?』も合わせてお読みください☆(リンク)
いかがでしょうか。これが、「民主主義」という言葉に隠された、本当の意図です。
学校に入り、当然のように「正しいこと」として繰り返し刷り込まれてきた民主主義という観念は、初めから大衆を「とまどえる群れ」と称し、余計なことを考えさせない為の道具、もっと言えば権力側に都合よく世論をコントロールする為の仕組みとして作られたものに過ぎません。
(写真はリンクより)
冷静に考えてみれば、私達が日常生活でわざわざ「民主主義」という観念を持ち出して答えを追求する場面など、実は殆どありません。何の権力も持たない一般大衆からすれば、民主主義なんてものは何の答えにも成らないから、実際に使う事も無いのでしょう。しかし、だからこそ無意識の内に刷り込まれているこの旧観念に、知らず知らずのうちに騙されてしまうのだとも言えます。
とは言え、今まで特に疑うこともせず、当然としか思っていなかったものが実は大きな騙しであった、という現実に気付いたら、余計に戸惑ってしまいそうですね。でも、ご安心下さい。民主主義以前の集団統合の仕組みが、ちゃんと私たちの中にはあるんです。
◆謙虚さ、まず学ぶ、共同体の根本規範☆
まず、「民が主」という時点で本当に皆のこと、社会のことを想っているのかどうか、あやしいものです。共同体の成員は自分たちが主などは言いません。
以下は、共同体の根本規範について『民主主義は、自我の暴走装置である』(リンク)
より引用します
共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、
部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。
それに対して「民主主義」は、根本的かつ致命的な欠陥を孕んでいる。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。むしろ、民主主義は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?
(中略)
何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。
事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。
こうして民主主義は、 『学び』をないがしろにすることによって、どんどん自我を暴走させると共に、どんどん人々を無能化させてきた。
(右上の写真はリンクより)
「共同体における共認形成」と、「民主主義による合意形成」と言われるものがどれだけ違うものか、ご理解頂けたでしょうか。成員みんなで、自分達が置かれた状況(事実)を認識し、どうするかを考えるための規範と、事実がどうであれ自分の都合に合わせて主義主張をさせるかのように見えて、実のところ「殆ど何も学ばず、考えさせないようにしているだけ」の仕組みは、全くの別物でしかありません。
では次に、共認形成に取組む上で当事者として意識すべき事について、紹介します。
共認形成の場では、参加者全員が発信者であり、評価者となります。発信・評価のいずれにおいても、参加者の意識がズレていれば、組織全体が誤った方向に向かってしまう事にも成り得ます。
そこで、実際に類グループの社内で議論してきた内容を一部紹介します
◆なんでも思ったことを発信すればいいというものではない☆
では、具体的な中身を見ていきましょう
共同体を語っている私達類グループの社内ネット でさえも、なんでも思ったことを発信すればいいというものではないのです
「なんであれ発信は○」というのは、問題や不満を隠しているよりは発信した方がマシだという意味であって、実現の時代を迎えた共同体類グループは、次のステップに上昇する、すなわち発信の中身が問われる段階に来ているだろう。
◆発信内容が有益か有害かを見分ける判断基準(モノシ)は何か?
ミスやサボリに対する問題指摘は、本来やるべきことという普遍的な根拠がある。あるいは態度やモノの言い方がおかしいとか打合せの場の空気が読めないといったことに対する問題指摘も、その前提には社会常識や規範といった普遍的な根拠がある。このような普遍的な根拠に照らして成される問題指摘は有益、かつ重要である。
それに対して、例えば全体会議の決定事項に対する問題指摘は、「では、どうする?」という代案のないものは単なるイチャモンにすぎない。代案付きの問題指摘も一見はもっともらしいが、その中身を見ると、共認形成の害にしかなっていないことが多い。
従って、有益な指摘か有害な指摘かを見分けるには、
その指摘が
①実現の意思に基づいて発信されたものか、
②普遍的な根拠を持っているか、それとも一面的な根拠でしかないか。
それが判断基準(モノサシ)であり、それを見分けることが不可欠である。
普遍性があるかないかを見分けるには、一つには、実現するための前提や与件がどこまで把握されているかを考えること。もう一つ、常識に照らしてor直観的におかしいという判断も重要である。
実現の時代に入り実現期待が高まるにつれ、対象をどこまで広く深く捉えられるかが勝敗を決する闘争能力(認識力)となる。このことと普遍的な根拠を持つこととは同義である。社内ネット投稿にも実現するための普遍性が問われるようになる。
そして、対象を広く深く掴み、普遍性を獲得するための武器が構造概念である。
(類グループ社内ネット:「その発信は実現の意志に基づくものか?普遍的な根拠を持っているか?」より)
(写真はリンクより)
上記の発信のスタンスは、社内ネットの場 だけで求められるものではありません。
ミーティングでも劇場会議でも日常の全ての共認形成の場で同様のスタンスが求められるのです。
・参考
『共同体経営とは?』9-1~共同体の根本規範とは?=合議制システム~
『共同体経営とは?』9-2~共同体の根本規範とは?=合議制システム~
◆最後に☆~民主主義からどう脱却するか☆
民主主義は私達の幼少期からはじまり、いろんなところではびこっていますが、果たしてそれで何かが実現できたことがあったでしょうか 🙄
部活でもサークルでも仕事でも、何か問題やよりよくなりそうな可能性が見えれば、皆でとことん話し合い、考えてきたのではないでしょうか?そのときに、自分の意見がどうだとか、相手の権利がどうだとか、言ったことがあったでしょうか?
(写真はリンクより)
特に企業の中で働く方は深く納得されることと思いますが、お客さんの期待に応えていく中で、また、未明課題に向かう中で多数決など全然役に立たないという感覚をお持ちだと思います。
どうすれば深く期待に応えることができる どうすればもっといいものができる そしてみんながすっきりする答えを出すには、むしろ民主主義に侵されていては、その思考の枠を狭めてしまいます
共同体の最大の特徴は、みんながみんなの充足を第一に考えていることです。それは、個人が絶対である民主主義とは決定的にちがうところです。
500人を超える社員で三位一体となり運営している類グループでは、「どのように会社の方針をまとめているのか?」という質問をよくうかがいますが、それこそ前述した共同体の規範に則り、自然に学び・歴史に学び、先人に学び進んできました。
また、そのときに重要となるのが、事実を羅針盤に進んでゆくことです 自分の価値観や好き嫌いではなく、誰もが認める事実を軸に進むこと そして、そうやって誰もが納得してすすめると、社内やチームのみんなの活力が何より違います
その具体的なすすめ方については、また次回の記事をお楽しみに
【参考投稿】
共同体化の最大の敵は民主主義
民主主義を疑え
実現論:序6(下) 共同体企業のネットワークをどう構築してゆくか
- posted by kubota.a at : 23:59 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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