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2013年11月21日

「大転換期を生き抜く」シリーズ第二章 『技術革新・新エネルギー需要』 2-4.『健康』を捉えなおす・・・その1

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■はじめに
 みなさん、こんにちは。「大転換期を生き抜く」シリーズの6回目の記事です。
 本日は、前回の記事の流れを受けて、「健康」に注目します。まずは「健康って何?」というそもそも論からスタートです。

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■健康とは何か?
 健康とは何でしょうか?その一つの回答がWHO憲章にあります。

「健康とは、身体的、精神的、及び社会的に完全に良好な状態であって、単に疾病がないとか、虚弱でないというだけでない。今日達成しえる最高水準の健康を享受することは、すべての人間が、民族、宗教、政治的信条、経済・社会的な信条に関わりなく、共通に与えられている基本的人権のひとつである。すべての人々の健康は、平和と安全を達成する基礎である。ある国が健康の増進と保護を達成することは、すべての国に対して価値を有する」(WHO憲章)

世界保健機関がいうのですから、普遍性のある答えのはずです。・・・ところが、しっかり読むと「」が湧いてきました。
 “身体的、精神的、及び社会的に完全に良好な状態”というのは確かに健康そうですが、“単に疾病がないとか、虚弱でないというだけではない”と続かれると、それ以降は何だか話がずれていっているように読めてしまいます。いったい、何の話をしているのだろう?
 そもそも「完全に良好な状態」なんて実現可能なのか?“今日達成しえる最高水準の健康を享受することが基本的人権”ということは、時代によって健康の意味が、ひいては基本的人権の中身が異なるのか?そんななかで「完全」とは何?・・・などと(屁)理屈で考え始めてしまいます。色々考えた結果、わかったことは「健康とは、何だかわからない」ということ です。さて、どうしましょう。
 
 
■東洋の思想家たちの思考法
 要素還元的な因果関係思考、すなわち「原因→結果」で健康を捉えようとすると、健康は“結果”にあたります。ところが、その考え方だと、健康の定義を最初に押さえないと、そこに至る道筋(=原因)が変わると思えてきます。すると、健康の定義が曖昧な状態では、どうやって健康になるかが特定できません。すなわち、要素還元的に捉えたWHO憲章の「健康」は、どうやって健康になるかは「時代や地域による」とか「人それぞれだ」程度にしか理解できないものになります。実際、WHO憲章は、そういう曖昧さを意図的にもたせていると思います。
 
 一方、このような幅広い解釈が可能な概念に対して、別のアプローチをする人たちがいます。古代中国の思想家です。彼らは「健康とは何か?」という問いに対して、因果関係思考とは逆のアプローチをします。彼らが重要視するのは、健康という「状態(=結果)」ではなく、そこに至る「道筋(=原因)」。いわば「人としての生き方」に答え(普遍性)を求めます。この考え方は「収束関係」(⇒参考)。因果関係とは逆のベクトルで普遍性を求めようというものです。
 で、その際に重要になるのは、先人の経験や実績です。過去の事実を鑑みて、具体的に答えを説くことになります。結果として、「健康とは何か?」に対する直接的な答えにはなっていないものの、「健康になるには“どうする?”」という実践的かつ普遍的な答えが導かれます。
 
 
■荘子の健康観=『養生』
 中国の思想家「荘子」が導いた答えは以下です。これは『養生』と言われます。

 自然則に順ずる、自然に生きる、生を忘れる、自己犠牲を否定、精神を養う道を自覚すること、純粋素朴の境地への歩み、過食は健康を損ねる、出世至上主義や過剰な欲や名声に走り過ぎない、田開之の話のように「身の内と外」をよく調和させること
(荘子の養生の思想より)

達観です。答えとして十分に端的。これを読むと、身体的な状態を「健康かどうか」という漠然とした観念(頭)で問うことの無意味さを知ります。
要は、身体が健康かどうかが問題なのではなく、「身の内と外をよく調和させる」よう生きる道を探るということです。あえて健康という言葉にひきつけていえば、正しい生き方が、結果として心身ともに良好な状態を生み“健康”と呼んで差支えがない状態に至る、ということです。
また、ここで大変重要なのは、この訓が、生物的な“個体”の健康を問題にしていないと理解できる点です。「集団として、皆が、正しく生きる」。そうなってはじめて、人間集団のポテンシャルが維持され、集団的な力が発揮される、という含蓄があるでしょう。集団動物である人間の、全体的な適応を目標とした『規範』という位置づけです
 
考えてみれば、人は、自分ひとりで心身ともに良好な状態を生み出せるものではありません。環境との関係、人間同士の関係・・・荘子のいう「身の内と外の調和」とは、自己と対象の間にある壁を取り払い、その中から同一性を見出して歩み寄る(融合する)態度であるように思います。
 
 
■個体として分離された「健康」
 『養生』の考え方と対比すると、個体(≒私)の健康をどうする?という個人主義的健康観の限界性を感じずにはいられません。WHOのいう健康がまさにそれです。結局は、基本的人権という(個的かつ時代によって異なる)曖昧な観念と健康を結びつける。最後に“健康は、全人類的な価値だ”という主旨は述べているものの、出発点を個人に置いている時点で、“人それぞれ”に帰結する可能性は排除できません。…というか、もう、そうなっています。
 
 昨日、勤め先の会社で「健康診断」がありました。例年、“要経過観察”の項目を引きずって、もう何年経つでしょうか。そんな不本意な結果を同僚と見せ合って「また今年もガンマ(γ-GTP)がダメだった」と苦笑している光景は、一見するとどこにでもありそうです。
が、よく考えてみたら、これは、相手の健康を全く意に介していない(冗談としか思っていない)ことの表れでしょう。極言すれば、健康の状態は“人それぞれ”であって、相手の健康状態は、自分とは全く関係のないものだ、と思っているわけです。
 
この捉え方が“寂しい”などとは言いません。ただ、個人個人に完全に分離されて健康が論じられていることは紛れもない事実でしょう。このことは、集団的地平に立った荘子の『養生』訓とは根本的に異なるところです。
 
 
■国家と健康
 上記の帰結として、今現状、国家が国民の健康の面倒を見ることになっています。全員加入が原則の国民健康保険は、世界的に評価される制度といいますが、昔からそうだったのでしょうか? 
↓↓↓いいえ、違います。そんなはずありません↓↓↓

「養生」から「健康」「衛生」へ
・江戸時代の生活の知恵と規範「養生」。江戸以前に「健康」という言葉はない
Ex.貝原益軒「養生訓」。「よくわが身をたもつべし」「病とは気をやむこと」。自我、個人の欲望に対しては抑制的。
 
明治時代、富国強兵と市場拡大の要請から「健康」「衛生」へ転換。同時に西洋医学の導入。
Ex.西周「人世三宝論」。健康・知識・富有の私権を追求することが公益=国益につながる。「公益ハ私利ノ総数」。
Ex.長与専斎「衛生概論」。「衛生ノ事タルヤ広シ、小ニシテハ一人ノ康福、大ニシテハ国家ノ富強」。
 
・昭和戦後、日本国憲法25条「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2.国は,すべての生活部面について,社会福祉・社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。現在の政策(ex.健康増進法)につながる。健康という権利、人権、私権。健康と市場。
るいネット 『そもそも「健康」とは何か』 より

「やはり」という結果です。日本人の健康観が塗り替えられたのは、明治以降のこと。言い換えれば、自分の健康と相手の健康が同一の価値ではなくなった、すなわち、集団的価値=『規範』でなくなったのは、明治以降ということです。
 今現在、私たち国民は、健康を害するかもしれない何かがあれば「国が面倒を見ろ」的な(制度の不備を指摘する)要求をします。が、これが本来の姿なのでしょうか?そもそも、自分の身体を国に託することが、本当に望ましい姿なのでしょうか?
 
 次週「その2」では、このあたりの現状分析からスタートし、これからの可能性にいたります。ご期待ください。
 
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

 

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