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2014年09月03日

高齢者の可能性を活かした新事業計画06 ~高齢者の役割について歴史を遡る!(中世:江戸時代編)~

みなさん、こんにちは!

前回は文明以前の高齢者主にインディアンや採取民にスポットを当て役割を見ていきました。(リンク

現在の市場社会では「若さ」が好まれ、「老い」を嫌う「嫌老好若社会」ですが、古代には「好老社会」が存在しており、むしろ「好老社会」の方が主流であったことがわかりましたね。

日本では戦前まで「敬老」「尊老」という考え方はっきりとした形で残っており、その考えを失ったのは、近代に入り市場化・工業化、西洋化の流れによるものと考えられます。

では日本ではどのような形で「好老社会」を実現していたのでしょうか?そもそも、どのような役割を担って年をとっていったのでしょうか?

江戸時代の高齢者について「江戸時代の老いと看取り」(山川出版社)を参考にまとめます。
江戸 老いと看取り

画像はこちらからお借りしました。 

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01.江戸時代の社会状況

徳川氏の全国統一により250年にわたる泰平の世が続いた江戸時代は、前代に比べて人びとの暮しははるかに安定的に営まれるようになった。十八世紀以降、社会全体の生産力が上がり、医療の恩恵にあずかる層が広がると、長寿の可能性は、身分・階層・地域・性別の格差を超えて拡大し、疱瘡などで命を落とすことの多い幼児期を乗りきり、20歳まで生き延びた者であれば、60歳以上の余命をもてるようになった。飛騨国の寺院過去帳の分析によれば、江戸時代後期の21歳以上の平均死亡年齢は、男性61.4歳、女性60.3歳で、51歳以上の人びとの享年は70歳を超えている(須田1973)。成人後の平均余命は現代と比べても見劣りしない数値である。

現代の平均寿命である80歳を超えて生き延びる者も、稀少とはいえない人数が存在している。

(中略)

長命化は人口の高齢化を引き起こし、十八世紀前期から十九世紀前期にかけて、時期的な変動はあるものの、それまで5%前後で推移していた60歳以上人口が15%を超えるような村や町が、全国に広く出現していた。高齢化社会は現代日本にはじめて生まれた人口現象ではないのである。

 

江戸時代には60歳以上人口が15%を超えるような村や町が、全国に広く出現していました。昨今の課題となっている高齢化社会は現代日本にはじめて生まれた人口現象ではありません。

では、江戸時代の高齢者は集団の中でどのような役割を担っていたのか?農民・武士の順で見ていきましょう。

 

02.農民も武士も男も女も生涯現役

●老いて働く農民

家族労働で営む小農経営にあっては、女性も老人も子どもも、それぞれの労働能力に応じて働くことで、一家の生計を成り立たせていた。年老いて家督を跡継ぎに譲り、公的な行事から身を退くことはあっても、農作業や家事からの隠退はなく、肉体労働を継続していたようすは、四季折々の農作業や年中行事など農村の風景を描写した、四季農耕図と呼ばれる図絵からうかがうことができる。

四季農耕図

(四季農耕図:画像はこちらからお借りしました)

四月は畑の大豆・小豆・稗・粟などの追肥と除草の作業、5月は刈りとられた大麦の運搬、小麦の刈取り、畑の稗苗の植場づくり、6月は藍の刈取り後の運搬、8月は収穫後の大唐稲の運搬、9月は稲干し後の落穂拾いと箕を使った米の精選を老母が担い、老人は蕎麦刈り後の運搬に従事、12月には家内で老母が女性たちと石臼で粉挽きをするなど、年間を通じて農作業のさまざまな局面で、年老いた男女が携わる労働があった。いずれも女性や少年、子どもたちとともに担う姿がみいだされている。

 

●老いて現役の武士

武士には現在のサラリーマンのような定年退職の制度はなかった。病気と老衰(老年)を理由に役職を退いて隠居することを認められていたが、幕臣の場合、病気隠居は40歳以上でなければ請願できず、老衰隠居は70歳以上になってはじめて認められた。

(中略)

仙台藩・宇和島藩では60歳が老年隠居の法定年齢とされたが(大竹1990)、金沢藩・会津藩をはじめ、管見のかぎりでは70歳で隠居を許可する藩が多いようである。ただし高知藩・鳥取藩のように原則として隠居を認めない藩もあった。

(中略)

江戸幕府は、古代官僚制の例にならい、70歳までは働くべき年齢としたものと考えられる。一方、古稀をすぎても引き続き職にとどまる者も、稀有ではなかった。江戸町奉行として名高い大岡越前守忠相は、その代表的人物であり、古稀をすぎてから大出世をとげたことも注目されてよいだろう。

(中略)

大岡忠相のように大きな昇進ではなくとも、高齢での役勤めにより家禄と家格の上昇をかなえた武士は、幕臣にも、藩士のなかにも少なからずさがしだせる。米沢藩士の山田近房は、その一人である。

近房は67歳で隠居を願い出ている。だがこの隠居願いは差し止められ、翌年3月、鉄砲足軽組頭(五十騎組物頭)に抜擢された。その後150石を加増され、禄高を200石にふやした。ようやく隠居を認められたのは10年後の1734(享保19)年12月、奉公55年目の78歳のときである(『米沢市史編集資料』第21号)。

近房が67歳で隠居を差し止められたのは、役人としての有能さを買われたものだろう。国目付の先乗や参勤交代の先乗など、古稀をすぎて重職を命じられており、この功績があってこそ近房は、家禄を50石から200石に加増されたのである。

近房の長寿は、藩への奉公にとどまらず、山田家に対する奉公としても、大きな意味をもったのである。

●長生きこそが武士道

1834(天保5)年の70代の幕臣に注目してみる。高井実徳は74歳で病に倒れたが、記載された70代の役人の履歴を追跡すると、39人のうち16人が80代まで生き延びており、このうち半分の8人が、現役のまま死亡している。つまり隠居年齢の基準である70歳をすぎても致仕しなかった役人たちは、当人が長く年労を積むことを望んで致仕を上表(じょうひょう)しなかったのであり、現役役人のまま生涯をおえたのは当人の意思であったと考えられる。幕臣の終身雇用は現役志向の武士たちの意思表示の結果であって、彼らは致仕しない(官職を退いて引退しない)ことを名誉ある武士の生き方と観念し、老病と戦いながら役人であり続ける人生をまっとうしたのである。

江戸城では、先手をつとめる70歳以上の者たちが、たがいに助けあいながら仕事の負担を軽くする習わしがあった(氏家1991)。老耄(ろうもう)が進みながら職にとどまった者もいれば、矍鑠(かくしゃく:年をとっても丈夫で元気のいいさま)として仕事に励んでいた者もいた。老衰や重病でまったく動けない状態でなければ、長く年労を積むことにより、家のために少しでも昇進することを望み、終身働き続ける者がいたのである。 

●隠居女性の役割と活動

武士の家や、相応の資産のある農民や町人の家では、女性は姑として主婦権を嫁に委譲し、家事労働から解放されることで、あらたな役割や活動に時間を費やす隠居の年代をすごしていた。阿波徳島藩の下級武士家の隠居であった上田美寿が古稀を迎えた年の1852(嘉永5)年からつづった「桜戸日記」を分析した棚橋久美子氏は、家の重鎮的立場を期待されるだけでなく、地域社会にあって頼りにされた美寿の姿を明らかにしている(棚橋1999)。

美寿は家事に携わる姿はほとんどみられない。嫁の雪の縫物を手伝い、来客が多い日の掃除の手伝いをすることくらいである。家事から身を退く隠居女性の姿は、豪農や大きな商家に基本的に共通している。

一方、美寿は、「老の出来る事を手伝ひて居る」として、正月や七夕などの祭礼の準備と、その折の客の接待を受けもっている。行事の準備には孫をともなうことで、その知識を伝授しようとした。家の年中行事に関する知識を次世代に伝えることは、実際、隠居や年寄りの大事な役割であった。

美寿は親族に武家奉公の口利きを頼まれて紹介したり、養子縁組の相談に応じることもある。長い人生で蓄積されたのは経験的な知恵や、技能にとどまらない。血縁や地縁、さらに、亡き夫の仕事の関係で築かれた人脈や情報網が、地域から厚い信頼をよせられ、地域の内外の人の縁を結んでいたのである。

美寿の地域社会のなかでの役割にはもう一つ、寺子屋の師匠としての仕事がある。男女あわせて30人前後とみられる筆子を早朝から昼すぎまで教えるのが、平均的な日課であり、亡くなる前年の74歳まで、現役の師匠であり続けた。これには、徳島藩士稲田家に仕え、儒者であり医者でもあった父の三宅松庵から俳諧・詩歌の手ほどきを受けて育ち、男子の学びと同様に孝経や四書など儒学の基礎も授けられていた教育の履歴が背景にある。

 このように江戸時代は農民も武士も男も女も生涯現役を貫き、しかも長寿であったようです。ここでは割愛していますが、100歳を超える方も多く記録に残っています。

現代ほど医療が発達していない時代になぜこれほどまでの長寿を実現でき、現役でありつづける体力やモチベーションを維持することができたのでしょうか?

共通する構造として、以下の点が挙げられます。

①引退がないゆえに歳をとってもイエ(経営体・生産体)の役に立ちたい、昇進し続けたいという意志を持ち続けている。

②歳をとっても役立てる課題はたくさんあるのでそれを発掘し、役に立てる課題はなんでもやる!

③みんなの期待に応え続けてきた者が集団の長となり、さらに大きな期待に応えていく。

※江戸時代の日本のイエは経営体・生産体そのものでした。詳細については『江戸時代の思想7 イエという経営体(共同体)を母胎に観念追求がなされた江戸時代』を参考にしてください。

このように、みんなの役に立つためにはどうするという追求が、この当時の長寿の秘訣だと考えられます。

 

03.江戸時代はみんなが求道者!

この仮設を裏付ける事例をるいネット「”スーパー高齢者”に共通するもの~未知への収束。未知収束が高齢者(事業)の可能性を開く」より紹介します。

・生涯現役であるためのパタン1:好奇心が旺盛であること

基本的に何でも引き受けます。そこで天職に巡り会い、とことん突き詰めていくのです。

 

・生涯現役であるためのパタン2:ひたむきな向上心があること

決して現状に満足せず、常に成長する努力をしているので、まったくヒマがありません。

 

・生涯現役であるためのパタン3:くじけない強い心をもっていること

どんなに失敗し逆境にあっても、目の前のことを楽しんでいるので、くじけません。

 

この3つのパタンにより一生続けられる仕事を見つけた彼らは、例外なく幸せに生きていると言えます。つまり誰もが思わず敬意を表したくなるような「老い方」に必要なものは仕事なのです。そこで次のような仮説が成り立ちます。

 

仮説:生涯続けられる仕事は幸せな老い方を約束する。隠居は不幸の始まり。

現代から考えると老人は定年退職(≒隠居)するのがあたりまえですが、江戸時代は隠居は一部を除きありませんでした。その結果、仕事どうする?役に立つにはどうする?集団をどうする?といった現実課題を追求し続けることとなり、結果、長寿を実現できたと考えられます。

このように考えると、江戸時代の老人たちは、現実課題を追求する求道者だったと言えるでしょう。そして、より集団のために答えを出せたものが農村での長、武士(≒役人)の長となり、このような老人達の叡智が結集した結果が江戸時代の天下太平260年を支えたのではないでしょうか?

江戸時代の老人たちの生き方は、今後の高齢化社会を考えていく上で、非常に参考になる事例だと思います。

次回は現代にもどって、現代の地域社会とのつながりについて考えていきます。

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