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2015年02月17日

共同体と死生観~死を忌み嫌い遠ざける現代社会~

国民生活基礎調査によると、2014年の世帯平均人数は2.51人である。これは夫婦に子供が一人いるかいないかという数値であり、調査が開始された1950年代の約半分となっている。さらに総人口そのものは横ばいであるにも関わらず、世帯数は増加傾向である。世帯の分散化、個別化が益々進んでいるのが見て取れる。

明治以降の核家族モデルさえも崩壊の傾向にある現在、人間関係の変化から、生と死の捉え方もまた、昔とは異なったものとなっているのではないか。死生観にどのような変化をもたらしているのだろうか。

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死を忌み嫌い遠ざける現代社会

芥川龍之介の『羅生門』には冒頭から死体が登場する。同じような時代、たとえば惣村の時代は、疫病や飢饉の影響もあって日本人の平均寿命は大変短かった。したがって、高齢者に限らず、親類や仲間の誰かが死ぬことは、それほど珍しい事ではなかっただろう。むしろ日常に近かったはずだ。そのように考えると、死が身近な分、新しい命の誕生を喜ぶことが出来たのだと思う。死を悼むことと誕生を喜ぶことは、途切れることなく一対だったのだ。

高齢者が「弱者」になった理由は、「福祉」という観念が登場してきたから、つまり、共同体が失われたからだと言えるのではないだろうか。

死を忌み嫌い遠ざけるようになったのは、「共同体が失われた」ことに端を発するだろう。人の死と生が一対の共同体を失った結果、誰もが怖れる死を忌み嫌い、遠ざけることに歯止めがきかなくなった。語弊を怖れずに、極端な言い方をすれば、高齢者が「弱者」と言われ社会から遠ざけられるのは、最も死に近い存在だからだ。死を待つだけの存在にさせられているのである。

強制的に「弱者」扱いされ、社会から遠ざけられれば、生きる活力を失う。その結果現れた現象を認知症などと言い「福祉」という名の医療施設や介護施設に収容する。そこに市場が群がる。国が「弱者」の面倒を見る制度を、経済活動の中に取り込んだためだ。福祉の予算が膨張して国が傾いている現在、福祉と市場はもはや同義語である。市場は、人の尊厳たる死さえ食い物にしているのだ。誰からも知られぬよう遠ざけたところで。るいネットでも悪名高い「胃ろう」は、その象徴だろう。

図解 福祉制度の欺瞞のコピー

私たち日本人は、相互扶助的意識が高いといわれる。そのため「弱者」や「福祉」という観念に弱いのかもしれない。しかし、意識(=人格)を失った人が胃に栄養を流し込まれて生かされている。この現実をどう見るのか。明らかに生物として狂った状態を「弱者」や「福祉」という観念だけで正当化して受け容れられるものだろうか。おそらく、そこには死を極端に忌み嫌う意識が多分に混入していると思う。死を必死に捨象しているから、福祉という名の市場に騙され続けているのに気付かない。そして、更に深いところでは、本来的な死のあり方、生のあり方に考えが及ばなくなっているのではないか。

高齢者の役割創出や地域共同体の再生といったとき、まずは出来ることからやっていくことに異論はない。様々な新しい活動が、活力をもって行われることが肝要だ。ただ、あるとき、捨象できない現実が立ち現れることを忘れずにいたいと思う。私たちは、本来、死を悼むことと誕生を喜ぶことが分かちがたい集団にいたのだ。

ばあちゃん

共同体性が失われ、核家族、個人へと細分化された現代社会は、生と死の認識もまた途切れ途切れとなっていく。生と死を分断したがゆえに、生きるエネルギーも大きく失っているのではないか。死を悼み先人への感謝を深くするから、生のあり方に考えが及ぶ。そして誕生を喜ぶことと先人への感謝は一体だった。共同体の精神を失った弊害は大きい。本当の意味で、命の重みを知っている人は、どのくらいいるだろう。

 

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