2015年02月11日
新聞の歴史とこれから⑩ ~新聞情報は受け皿となる組織内で熟成され運動へのエネルギーになる
このシリーズの過去記事です。チョコのお供に是非どうぞ!
①専業でも政治主張でもない、企業発の新聞が新しい
②瓦版の普及からみえる日本人の情報への関心の高さ
③新聞の登場とそれがもたらした日本への影響
④日本人による日本語の新聞の誕生と発禁処分
⑤読者の声(評価)が信頼を形成していく
⑥庶民向け新聞の登場と皆で記事を語る場で新聞は浸透していく
⑦発禁・廃刊こそが大衆発の印(しるし)
⑧今の配達販売につながる郵便報知新聞の登場
⑨戦争を契機に新聞社は社会的信用と商売の成功を獲得する
さて最近、政府とマスコミの間に不気味な緊張感が走っていると感じませんか?
特にISLEによる湯川遥菜さん後藤健二さん人質事件以来、「政府批判」に過剰反応しているように思えます。そんな状況に警鐘を鳴らすように、2月9日に「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」が発表されました。(賛同人は、元官僚の古賀茂明氏、音楽家の坂本龍一氏、憲法学者の小林節氏、思想家の内田樹氏、映画監督の是枝裕和氏など。日刊ゲンダイ参照) 状況としては正論よりもテロの脅威を背景にした政府の方が優勢のようです。
最近の傾向としては、「 政府 対 マスコミ 」という構図ではなく、「 マスコミ 対 マスコミ 」(例:朝日新聞に対する他紙からの強烈なバッシング)、「 ネット 対 ネット 」(例:ブログ等での大炎上)という構図になりつつあると感じていますが、これまで展開している新聞創世記の明治時代は、未だ「政府 対 新聞社」という構図でした。そして新聞の力が大正時代に爆発することになります。では今回もガジェット通信「新たに聞く~日本の新聞の歴史」の一部引用から展開していきます。
大正時代に入ると、新聞社の編集体制は政治部、社会部などに分かれて組織化され、取材方法も確立されていきました。社内のシステムができあがるにつれ、取材の現場も海外へ記者を派遣して国際報道が行われたり、スクープ合戦が行われるなど、記事の幅もひろがりました。
また、学校教育を受けた者が自ら取材を行い記事を書くようになり、かつてのように町の噂を集めてくる探訪員に頼ることがなくなったため、社会面の質も向上しました。大正11年(1922)には、アメリカの新聞社にならって、大阪・東京の両朝日新聞社が日本初の記事審査部を設置。誤報による取材対象者のクレーム対応に着手しています。
新聞の種類も多くなり、その社会的影響が大きくなっていくと、世論を形成する影響力を政府に警戒されると同時に、政治を変える力を持つ言論の力に読者からの期待も集まりました。憲法を無視して成立した内閣への批判が世論を動かした「大正政変」では、政府を擁護する新聞が民衆の襲撃にあうという事件も起きるなどし、世論の力に押された内閣を倒すまでに至っています。新聞は政治と世の中の間をつなぐ場として、政府・国民双方から注目を集める言論機関に成長していったことがうかがえます。(ガジェット通信より)
「大正事変」とは、大正元年12月から翌年2月にかけての二ヶ月余りの間に2つの内閣が倒れてしまった、という前代未聞の政変劇です。
最初は、陸軍が西園寺内閣を倒した事変(*詳しくはウィキペディアをどうぞ)。そして次の内閣は長州出身の陸軍大将、桂太郎内閣でしたが、国民による「憲政擁護、閥族打破」の大合唱の前に、わずか53日という史上最短記録で崩壊しました。
この場合の閥族とは長州閥と陸軍という桂内閣を支える一派のことで、「閥族打破」とは西園寺内閣を倒した軍の横暴さを非難するものです。さらに桂は、自分が内大臣兼侍従長として天皇の日常的な補佐役である立場を利用して、天皇から詔勅(要するに「お前、頼むぞ」の一言)を出してもらったのです。これは「宮中と府中(行政)の別」を乱し、憲法に基づいた立憲政治の土台を台無しにしたことになり、これもまた国民の怒りをかうことになり、日本の議会史上初の大衆運動が始まります。
大正2年2月9日の憲政擁護大会は2万人を集める大集会になり、翌10日には数万人の民衆が議会を包囲し野党を激励する中、桂内閣の帝国議会が開会しましたが、程なく停会に。これに憤慨した民衆が、警察署や御用新聞である国民新聞社なども襲撃し、その運動が大阪、神戸、広島、京都へと広がり、ついに2月20日に桂内閣は総辞職したのです。
このように全国規模の運動に拡大していった要因は以下の3点です。
①実業家からの資金援助 ②新聞網(情報網)、交通網の発達 ③政党地方支部の活躍
運動の中心にいたのは、交詢社に集まった大阪朝日新聞の本多精一氏や時事新報記者の小山完吾氏、そして実業家の名取和作氏に加えて、政友会の岡崎邦輔・尾崎行雄の両議員、立憲国民党の犬養毅議員など。ジャーナリスト、実業家、代議士たちが一体となって運動は飛躍的に拡大していきます。勿論、交詢社の実業家(財閥、地方資産家)の資金援助があったことも大きいが、加えて、この運動が拡散されるだけの新聞による情報網・交通網、そして各政党の地方進出にも注目すべきです。中央で政治的混乱が起こっても、中央からの指示連絡網がないとそれは中央だけの白熱になってしまう。白熱を地方に拡散するためには、地方支部が活躍する必要があるのです。
新聞等のメディアの力のバロメーターは、読者からの反応・反響です。その反応がこのように具体的な社会的運動につながることが最も大きな力を発揮したことになります。しかし新聞社としては自前で運動体を持たないので、政党(特に地方支部)がその肩代わりをしたことになります。
情報が正しいことは勿論ですが、それだけでは不活性で、組織内や人と人との間で議論するなど、いわば熟成・発酵させることで行動や運動に発展するエネルギーになるのです。
- posted by komasagg at : 15:01 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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