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2015年01月22日

新聞の歴史とこれから⑦ ~新聞の発禁・廃刊こそ大衆発の印(しるし)

前回までの新聞の歴史シリーズは以下のとおりです。
①専業でも政治主張でもない、企業発の新聞が新しい
②瓦版の普及からみえる日本人の情報への関心の高さ
③新聞の登場とそれがもたらした日本への影響
④日本人による日本語の新聞の誕生と発禁処分
⑤読者の声(評価)が信頼を形成していく
⑥庶民向け新聞の登場と皆で記事を語る場で新聞は浸透していく
さて昨年末の衆議院選挙での出来事ですが、平成26年11月20日に自民党が大手テレビ局に対して、注文を出していたことが判明しました。
安倍マスコミ
特に「テレビ局が政権交代実現を画策して偏向報道を行い、それを事実として認めて煽り、大きな社会問題となった事例も現実にあったところです。」は、『マスコミは今回の選挙では黙っておれ!』と言わんばかりの内容。実際、これまでの選挙と異なり、マスコミ報道は大人しく感じました。報道の自由なんてものは、日本にすらなかったようです。
さて明治時代に産声を上げ、次第に広まった新聞に対し、当時の政府も同様に批判については封じ込めようとして、新聞の発行停止・禁止処分を行っていきます。またまた今回も、ガジェット通信「新たに聞く~日本の新聞の歴史」を一部引用しながら、紹介していきます。

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 厳しい新聞取締りの背景には、廃藩置県を不満に思う元・士族による反乱が続く不安定な国内情勢がありました。政府に批判的な士族たちは、当時の自由民権運動の基盤にもなっていたことから、当時の大新聞で活発に議論された自由民権論や革命論が危険視されたのです。そんななか、明治8年(1875)には、新聞社の持主、社主、編集人から印刷会社に至るまで責任を明確にすることを義務付け、国家を転覆する恐れのある論を載せた場合は、新聞社の持主、社主、編集人から印刷会社に至るまで、新聞発行にかかわる者すべてに罰金あるいは懲役刑が課せられるという『新聞紙条例18カ条』が公布されました。同時に『讒謗律(ざんぼうりつ)8カ条』も公布され、天皇、皇族、貴族、官吏、一般人への名誉毀損を防止するという建前のもと、政府要人や皇族を批判した者に、罰金あるいは懲役刑が課されたのです。(ガジェット通信より)

しかし、ありがちですが、何が【国家転覆の恐れのある論】なのか、何が【誹謗】にあたるのかは明確に定義されておらず、罰せられるかどうかは、政府の胸三寸ということです。

これは、新聞記者にとっては、まさに恐怖時代の始まりでした。新聞記者たちは法に抵触しないように婉曲な表現で記事を書くようになりますが、やがて『曙新聞』の末広鉄腸が「新聞紙条例を論ず」という一文で批判記事を出すと、新聞紙条例違反第一号として禁固3ヶ月、罰金30円の刑を受けます。その後、末広に続くかたちで各紙の記者は政府批判の記事を書き始め、逮捕者の数や新聞への発行停止・禁止処分は日に日に増えていきました。「新聞紙条例」が発布されてちょうど一年後、『東京日日新聞』の福地桜痴の呼びかけで、各新聞社の主だった人々が浅草観音本堂に集まり、「讒謗律」と「新聞紙条例」によって多数の逮捕者を出した新聞を供養する「新聞供養大施餓鬼会」を盛大に行いました。「お寺で新聞の供養をする」というあたりの洒落っ気は、当時の新聞記者らしいユーモアを感じさせます。(ガジェット通信より)

 

しかし、有力な新聞記者たちの相次ぐ逮捕にも関わらず、新聞は「禁獄は屁のごとし」「罰金平左衛門」と叫び、政府を批判する記事を書き続けたので、たまりかねた政府は明治9年「国安を妨害する新聞雑誌は内務省が発行を禁止する」旨を公布、最も急進的な新聞三紙を発行禁止にしてしまいます。三紙は、新聞名称を変更するなどして抵抗を続けましたが、度重なる発行禁止に耐え切れず、ついには廃刊に追い込まれてしまいました。法律布告後に、禁固刑に処せられた新聞記者の数は、明治8年に11件、明治9年には86件、明治10年には47件にも上りました。以後10年間に起きた、筆禍事件は500件以上とも言われています。(ガジェット通信より)

封建社会の江戸時代であれば、お上に逆らうことなどご法度であり、本人への厳罰はもちろん、お家取り潰し~藩の取り潰しまで、その責任範囲と大きさは明治時代の比較にならないでしょう。新聞記者にも読者にも、元士族が多かったことを考えると、高々投獄や新聞発禁などは、確かに「屁のごとし」かもしれません。

国会開設にあたって政党が組織されることになると、政府(自由党)はできるだけ多くの新聞を味方につけるために買収を始めました。中央の『東京日日新聞』や『大東日報』などに資金補助などを行い御用新聞化させたほか、地方の新聞にも手を伸ばしています。もちろん、買収に逆らう新聞には、厳しい弾圧の手も加えました。
このような懐柔作戦と同時に、政府は「新聞紙条例」を42ヶ条に増やして取り締まりの強化もはかりました。まず、時事評論を掲載する新聞の発行には政府の許可と高額の保証金支払いが必要になり、新たな新聞の創刊が困難になりました。当時は、新聞の看板になる人気記者や論客の記事には署名が記されていましたが、署名記事を書く者は身分、名前、年齢、住所当を提出し、問題を起こしたときは責任を問われることになったため、新聞からは署名記事が消えていきました。
また、民権運動に関わる演説等を禁じられた者は新聞発行に携わることを禁じられ、発行停止・禁止処分を受けたことのある新聞の社主・編集人・印刷人などは一切の新聞発行を禁じられ、重大な筆禍事件を起こした新聞社は印刷機械までも没収されることになりました。
条例公布後約一ヶ月のうちに、東京都内で廃刊した新聞は32紙にものぼり、この条例は「新聞撲滅法」とまで呼ばれたそうです。(ガジェット通信より)

同じ「新聞」にくくられていますが、新聞には2種類あるようです。政府(現代で言えば広告主≒産業界でしょうか)の援助を陰に陽に受け、政府の方針を大衆に向け発信していく新聞と、大衆の声を代弁し政府に向けて発信していく新聞です。
地方議会選挙が行われたのは明治11年、国政選挙になると明治22年にようやく行われましたが、いずれも制限選挙でした。そのため政府に物申す新聞への期待は大きかったことは、都内で32もの新聞が廃刊に追い込まれたことが物語っています。
今でも選挙が行われるのは4年に一度。大衆の代わりに政府にモノ申す新聞が求められている状況は同じかもしれません。

 

 

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