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2015年01月29日

新聞の歴史とこれから⑧ ~今の配達販売につながる郵便報知新聞の登場

前回までの新聞の歴史シリーズは以下のとおりです。新聞購読者もそうでない人も是非どうぞ。
①専業でも政治主張でもない、企業発の新聞が新しい
②瓦版の普及からみえる日本人の情報への関心の高さ
③新聞の登場とそれがもたらした日本への影響
④日本人による日本語の新聞の誕生と発禁処分
⑤読者の声(評価)が信頼を形成していく
⑥庶民向け新聞の登場と皆で記事を語る場で新聞は浸透していく
⑦発禁・廃刊こそが大衆発の印(しるし)

小泉旋風
30代以上の方は覚えているでしょう、あの2001年の小泉旋風を。「自民党をぶっ潰す」「改革なくして成長なし」のフレーズで、日本中を席巻した現象です。当時は“劇場型選挙”と呼ばれ、大手マスコミが設えた空間で、スポットライトを浴び続けたのが、小泉総理(当時)だったのです。マスコミと政界が手と手を取り合い、社会を塗り替えてしまったのです。一方、新聞創世記の明治時代はどうだったでしょうか?
明治時代初めにおいては、政府との対立姿勢を持ち続ける新聞も多くあり、度重なる言論取り締まりでも、その勢いを抑え込まれるまでには至りませんでした。その様子を今回もガジェット通信新たに聞く~日本の新聞の歴史」を一部引用しながら、当時の様子を見てみましょう。

新聞の大きな転換点となったのは、明治10年に起きた西南戦争です。戦争が始まると、東京の有力紙は競い合うように戦地へ記者を派遣し、戦況を詳しく伝えることで読者を集め、新聞の重要性を強く印象付けました。そして戦後は、もはや武力ではなく言論の力で政府を変えていこうとする機運の高まりとともに、新聞は“自由民権運動”のなかで大きな役割を果たしていくことになります。(ガジェット通信より)

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自由民権運動は、明治時代の政治運動・社会運動で、明治7年(1874)の民撰議員設立建白書の提出を契機に始まったとされています。民撰議員開設建白書とは、民選による議会開設を要望した建白書で、その内容は『日新真事誌』という新聞に掲載されて広く国民に知れ渡ったのです。(詳しくはウィキペディア「自由民権運動」参照)しかし政府は時期尚早として反対。そんな背景の中大衆は、士族の反乱である西南戦争にまたしても新聞を通して注目したのです。そして農民にも都市部の市民にも自由民権運動が広がっていくのですが、明治12年(1880)に政府は『集会条例』を公布し、さらなる言論弾圧を図るのです。

しかし、政府による自由民権運動の取り締まりの手が厳しくなるなか、一転して新聞が政府を追い詰める事態が起きました。明治14年の『東京横浜毎日新聞』が3日間にわたって伝えた「北海道官有物払い下げ事件」のスクープです。
この記事は、明治2年から13年まで、約1500万円をかけて行われた北海道開拓事業を、薩摩出身の開拓使長・黒田清隆がわずか30万円、しかも無利子30年払いで薩摩と長州の者に払い下げようとし、官界でこれに反対した者は大隈重信のみであったということを暴露しました。 続いて『郵便報知新聞』は4日間にわたる記事で藩閥政治の弊害と、この払い下げの不当性を訴えましたし、それまで“御用新聞”と見られてきた政府寄りの新聞でさえも政府のやりかた攻撃する記事を書くなど、各紙は足並みを揃えて事件を批判したのです。
驚いた政府は、すぐに官有物払い下げを取り消して、国会開設の時期を発表することになりましたが、同時に大隈を参議から追放しています。この事件は“明治14年の政変”と呼ばれ、日本において言論が政局を動かした最初のキャンペーンとなりました。(ガジェット通信より)

そして明治23年(1890)国会が開設され、政治や教育制度の確立による近代国家としての基盤が整ったことで、新聞社を取り巻く状況が大きく変化していきます。

教育制度は、庶民の識字率を向上させて読書の楽しみを教え、彼らを社会に関心を持つ新たな新聞読者に育てました。この流れを受けて、大新聞は内容を平易にするとともに値下げを行って庶民層を取り込み、販売数を増やして経営の安定化を狙いました。一方、庶民の新聞として発展してきた小新聞は、読者の社会的関心の高まりに合わせて政論記事を掲載するなど、内容において大新聞に近づく傾向にありました。
それぞれの新聞紙面の変化は両者の違いをあいまいにし、新たに“中新聞”と呼ばれる形態が生まれました。このため、大新聞と小新聞は同じ読者層を取り合うことになり新聞社間の競争は激化。淘汰される新聞、成長していく新聞に明暗を分けながら、新聞界の再編が進みました。(ガジェット通信より)

ある意味、大衆の敵であった政府に、民選議員による国会が開設されることで、単純に政府の批判記事を書けば良い時代でなくなり、大きく路線変更せざるを得なくなったのです。

新聞記者になる人にも、変化が見られるようになりました。かつては、元・士族の家系の者が記者として名を成すことで政界を目指すことが多かったのですが、平民から記者になり文筆で身を立てようとする者も現れはじめます。
このような状況の下で、福沢諭吉の『時事新報』や、記事の読みやすさを目指した紙面改革を行い、配達による直販を行う矢野文雄の『郵便報知新聞』など、「不偏不党」を掲げて報道を重んじる新聞も生まれるなど、新しいタイプの新聞も作られるようになりました。(ガジェット通信より)

この郵便報知新聞が、今の〈読売新聞〉の前身と言われています。名前の通り、日本の郵便制度を創設した前島密の着想に基づき、彼の秘書であった小西義敬らによって創刊された新聞です。駅逓寮(のちの郵便局)の組織を通じてニュースを集めるなど、地方記事が充実。勿論、配送も迅速円滑だったようです。

今でこそ、新聞/郵便/宅配など分業化されていますが、考えてみれば「家に配達する」という行為は同じなので、統合されていく可能性もあります。その場合、配達する「モノ」に重点が置かれるのではなく、「モノ」であれ「情報」であれ、つなぐという行為が重要になります。つなぐことで双方向になる・・・。郵便局組織がニュースを集めるなどは、まさに郵便→家ではなく、郵便⇔家の姿なのでしょう。これは「家と家」「家と社会」をつなぐ社会のインフラ事業の原型だったのかもしれません。

 

 

 

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