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2015年03月10日

共同体と死生観~命の重みを知る営み~

ある調査によると、現在のお葬式は、3人に2人が形式的と感じているらしい。その影響からか、最近では、故人をイメージした、その人らしさを伝えるユニークな葬儀が登場してきている。

例えば、ゲームドラゴンクエストがすきだった故人のために、そのグッズをお供えする。故人のお気に入りの音楽を流す。故人に相応しいお花で送る。など。格式張らず故人のスタイルに合ったお葬式は、好感が持たれ受け入れられつつある。

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他方、今と昔の死生観の違いも影響しているように考えられる。かつてのお葬式は、どのような世界観を起点としていたのだろうか。

前回記事 生命循環  死を忌み嫌い遠ざける現代社会

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命の重みを知る営み

元来、日本の葬儀は、コミュニティ―共同体―が中心となって行うのが特徴でした。しかし、今日では葬儀の担い手が個人化してきています。葬儀にもかなりその人らしさ、個性が現れるように変わってきました。

昔「葬儀のことはわからなかったら年寄りに聞け」と言われたものですが、都市部においては高齢者さえも葬儀のことがわからなくなってきています。最近よく公民館や消費生活センターから葬儀や墓についての講演を依頼されるのですが、ここにはお年寄りが多く集まります。60代・70代の方が中心です。その人たちは自分の葬儀について聞きたくて来ているのです。その人たちに葬儀について聞くと、ほとんど知らない。昔と違って、今のお年寄りは80歳未満の方々は「戦後派」なのです。戦後、都市化で多くの人が地方から都会に来ましたが、若い時ですから地方の習俗についてもよく知らない。都会に出てくれば近所のお葬式を手伝うでもない。手伝うと言っても受付くらいですし、ほとんどは焼香に参加するだけですから、わからなくて当然なのです。

死の環境の変化ということでは、生活の場からだんだん死が離れてきているということです。先ほど死亡の場所の変化を見ましたが、かつては自宅で看取り亡くなることが普通だったのが、完全に逆転して、今では自宅で亡くなることがレアケースになっています。家で亡くなれば家族が皆死を直接体験するのですが、今はそうではありません。しかも、核家族化で死を看取る人間が少数化してきています。孫が祖父母の死を見るのは葬式の時が初めてというケースが多くなっています。しかも遠巻きして見るだけで直接遺体に触るわけではありません。

葬儀そのものもかつては自宅で行われていましたが、今都内では10%を切るくらいになりました。葬儀は葬儀会館やお寺で行われることが多いのです。自宅で死なず、送られるのも自宅ではない。死が生活の中から離れ、別処理化されているのです。葬儀の担い手もかつては地域共同体でしたが、これも葬祭業者に変わってきています。

かつての私たち日本人の世界観は次のようにまとめることができるでしょう。

縁あってこの世に生まれ、コミュニティ―地域共同体で育ち、そこで生活を営み、死んでコミュニティに送られて自然に、あるいは浄土に帰る。その後そこで生者を見守る対象になる。

自然や地域と親和して人の生死があり、その中に入っていくことだから、ことさら死を恐れず、受け入れることができたのではないでしょうか。

今と昔の死生観の違いに影響しているのは縁の深さ。かつてのお葬式は故人に縁ある共同体が中心になって行われた。翻って現代は、縁浅く、やむなく故人の思い出のみが抽出されたお葬式になっている。至る所で疎遠となり、老後を見守る集団もなく、今や自宅でさえ死ねなくなった。

その人の生活の中心である共同体で自然に死を迎え、看取らせるということは、周りの人にとっても死を直接体験させることになる。そのことで、周りは死を受け入れる覚悟と命の重みを知る。死とは、故人が命を伝える最後のメッセージ。かつてのお葬式は、命についての、深い感情と認識を与えていたのではないか。

 

 

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