2011年06月17日
「人口減少社会の衝撃!!これからの働き方はどう変わる?」9~労働法の狙いと社会背景1~明治維新~戦前まで
シリーズ9回目、これまで扱ってきた内容は
Ⅰ.人口構造の変化
1.今、なぜ労働法について考えるのか?
2.100年後の日本は、明治時代末期の人口に
3.男性生産人口の急減→これからは女性の戦力化が必須
4.人口減少下での生産力維持は、女性老人・若者が鍵を握る
Ⅱ.産業構造(生産様式)の変化
5.産業構造の急激な変化(1)働き手の産業間移動
6.工業生産(=大量生産・大量消費)の終焉(2)~働き手の地域間移動~
7.意識生産社会の到来1~「工業生産から意識生産」への構造変化~
8.意識生産社会の到来2~意識生産時代に適応した組織形態とは?~
今回からは、Ⅲ.労働法の矛盾:新しい働き方が必要となる時代 について扱います。
前回は、中間まとめとして、産業構造の変化から「意識生産時代に適応した組織形態とは 」を扱いました。
いよいよ本章ではシリーズの目的である「新しい働き方の提言」に入ります。それらを考える上で、先ずはこれまで社会や企業組織のあり方や人々の価値観を変えてきた労働法について、法の目的(狙い)とそこに至る社会背景(外圧状況)を、2回に分けて歴史を追って考えていきたいと思います。今回は「明治維新~戦前」までを扱います。
その前に・・・
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◇私権獲得の可能性が開かれ、人口と生産高が爆発的に増えた
明治以降、日本は欧米列強と肩を並べるために、急速に市場化を行う必要がありました。市場化とは、万人に私権獲得の可能性を開き、私権闘争を促すことによって富を獲得することです。
それまでの土地集約労働が工場と機械に変わり、都市に富が蓄積されていきます。それら私権獲得の可能性が開かれたことによって、生産人口と生産高(GDP)が生産手段と連動して増え、さらに、人口も爆発的 に増えていきます。
[明治以降の人口及び生産人口・GDPの推移]
上図は一人当たりのGDP歴史的推移よりグラフ化
さて、それらの背景となった労働法と様々な出来事との関係はどうなっていたのでしょうか?
◇賃金(時間)制導入に伴う、間接管理から直接(個人単位)管理へ移行
明治初期はまだ、企業からみれば、江戸時代から続く親方請負制「組」組織は、職人徒弟制度を前提とした間接的な労務管理であるため、集団を管理する上で制御し易い組織でした。
ところが市場化=私権闘争を促すためには、地域、或いは組・家といった集団を解体し、生産と消費を個人単位に解体する必要がありました。それは、個人単位に解体した方が市場の裾野が爆発的に広がるからです。この市場化を促すために、明治政府は1871年に解放令「職業選択の自由」を布告、1873年には「地租改正」を行いました
一般に「職業選択の自由」は四民平等のための自由として考えられていますが、その実態は、貨幣経済 への転換を促し、都市賃金労働者 を増やすことでした。その為に地租改正が行われたのです。
【江戸時代と地租改正後の比較】
改正前(江戸時代) →改正後
課税の基準:収穫高 →地価(土地の価格)
税率 :収穫高の40~50% →地価の3%
納税方法 :物納(村単位) →金納(個人)
納税者 :耕作者 →土地所有者
江戸時代は村単位の納税でしたが、地租改正後は個人単位となり、自分の土地を持たない小作人は、土地所有者への年貢(米)払いが精一杯で、納税できなくなります。その為、農民でいるよりも都市労働者となった方が生活は少なくとも豊かにはなるので、その結果都市人口が爆発的に増えていくことになります。
すなわちこれらの制度改革は、労働者集団(村落共同体,組※など)を解体し、企業と個人の雇用関係に移行することによって、日本を農業生産から工業生産へと転換を促す、国の意思としてこれらを実施したということができます
この個人単位での管理=賃金制への移行に伴い、様々な法制度、或いは企業単位での労務規定が整備されていきます。
※「組」について詳しくは「江戸時代の村落共同体のありよう」を参照してください。
[労働法年表:明治維新~戦前まで]
最も市場化の原動力となり、熱狂させたのは日清戦争(1894年開戦)です 士族を中心とした義勇軍の結成や、同業者組合・学校・地域による金や物資の寄付運動が全国的に高まりを見せ、日本軍の勝利は、戦争に批判的だった下層民衆等も戦争支持へと変化、天皇への忠誠観念や帰属意識による「国民意識」が広く形成され、軍国主義の風潮が広まったと言われています。
これら戦争需要と連動し、工業化 は職工需要を急速的に高め、企業は個人単位の管理に移行することで大量に人 を集めることができるようになりました。
これにより組を中心とした熟練技能の必要性が急速に衰え、職人達の間では時間と賃金で管理される労働条件への不満 が徐々にたまっていきます。
◇「働く」とは江戸時代まで主体的に判断し行動することだった
職人たちにとって「働く」という行為は、近代資本主義における「(賃金)労働」とは違い、江戸時代はもっと自主的で裁量的な側面をもち、その方が、生産性が高かったのではないかという可能性があります。
以下、「労働とは明治維新以後に”Labour”に対する語として作られた造語」より引用
「仕事と日本人」武田 晴人 著
>労働とは明治維新以後に”Labour”に対する語として作られた造語であり、それ以前は労働という言葉自体が無かった。
>農民は領主に隷属していたが、江戸時代以降身分的な隷属から解き放たれて地位が向上した。
その結果、「農業経営に対して自身が責任を負うシステム」が構築され、農業経営の裁量権を農家の大黒柱に与えたことで、生産性が飛躍的に向上した。それは資本投資による労働生産性の上昇ではなく、労働集約的な農業生産のあり方を徹底した結果だった。そのため、農家はかなり長時間にわたって農作業に自主的に従事していたようです。
>明治維新以前、分業と協業という経済システムの成立する以前のはたらき方は、課題を一人でマネージメントし、多様な内容を家族の中で分担するような形で、多様性のある課題をこなすために、農民であると同時に大工技術を身につけているなど、村の中では職業自体分化していなかったようです。
>「労働」という言葉が誕生する前の時代には、(中略)さまざまな仕事を課題とか課業として組み合わせてこなすために時間に対して独自の考え方を育て、裁量的に毎日取り組んでいたことになります。
>伝統的なヨーロッパ社会においては“Labour”は奴隷が行うものであり、人間活動の基本的要素とは考えられていなかった。
>労働にかける時間は少なければ少ないほど良いという価値観が西欧の伝統的な労働観で、これが日本に輸入された。
kousyoublog(リンク)様より引用
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>これは、まさに現在の裁量労働と同じく、人は自らが判断し自主的に行う労働においては活力と生産性があがる証左ではないでしょうか?
>つまり、近代の工業生産社会における「労働(労働内容を指示され時間や成果を管理される)」が広まっていくにつれて、本来の「はたらく」ことに比べて、生産性も充足も大きく低下していったのではないかと考えられます。
これらの帰属集団を失った労働者達 の支えとして、「組」組織に代わり登場したのが企業別の労働組合です。
労働組合と企業との間ではしばしば労使対立を生みますが、第一次大戦前までは、企業も国家も個人も、「富国強兵」という共通目的があったからこそ、三者一体となり日本は急速な発展を遂げることができたのです。
ところが、戦後は高い経済成長は遂げたものの、’70頃から日本経済は徐々に失速 し始めます。その背後には、戦前の価値観とは違うアメリカ型の民主政策により、人々の労働に対する意識が徐々に変質していきます。その背景にある出来事と労働関連法との関係について次回は紹介したいと思います
- posted by oosima at : 12:00 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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