2012年04月08日
『企業の進むべき道』②-2~江戸時代から受け継ぐ、相互扶助的精神☆~商工会議所の歴史~
みなさん こんにちは 今回は「日本商工会議所の歴史って知ってる??」の続きです。今回も、引き続き 経済3団体のひとつ「日本商工会議所」にスポットを当てていきます
(写真は日本商工会議所、リンクよりいただきました )
前回は、日本の経済団体の歴史を含めて日本商工会議所の前身である「東京商法会議所」の発祥から活動までを見てきました
「商工業者の組合が必要」という要望は、国内の当事者(商工業者)にあったことは確かです。しかし、実際はそれとは別の要因、すなわち、外交政策の一環として政府の意図を帯びて(補助金も受けて)組織化が誘導された側面があることがわかりました。結果として、元来の相互扶助的もしくは自治的な意識は残存しつつ、一方で、明治政府の諮問機関として活動をしていくことになります。
2回目の今回は、東京商法会議所のその後、日本商工会議所に至る流れを見ていくことにします。
◆日本の産業
明治11年(1879年)当時、日本の経済は、農業では寄生地主的小農経営が主体。工業では、在来産業が未成熟で官営事業がほとんどを占める状態であったといいます。文献によると「商業資本による流通活動が主軸とした重商主義的段階にあった」ということですから、国内経済は、貿易を基盤にした商業主導で、工業的な産業基盤はいまだ発展途上の段階にあったと考えられます。(写真はリンクより。)
それを物語るように、東京商法会議所の内部機関は、内国商業、外国商業、運輸船舶について調査事務機構を設けているものの、国内工業について何も考慮されていませんでした。東京商法会議所設立の翌年に大阪商法会議所が設立されますが、明治14年(1881年)当時で、商法会議所が設立したのは、全国の主要都市の15箇所に留まっています。
◆改組:商業会議所へ
また、商法会議所が全国に広がりつつあったものの、その規定は法的根拠をもつものではありませんでした。すなわち、これまでの商法会議所は、政府の諮問機関的位置づけをもつとはいえ、任意団体として存在してきたことになります。その結果として、組織権限が曖昧で、活動の制約もありました。これに対して、商法会議所を公的機関にして、組織権限を法律によって定めて、機能を強化しようとする機運が高まっていきます
(写真は名古屋商業会議所(リンク)より)
こうして、明治23年(1890年)に渋沢栄一の働きもあって商業会議所条例が発布されました。それに伴い、各地の商法会議所が法的根拠をもった「商業会議所」に改められていくことになります。その数も1900年までに全国41箇所で設立されるに至りました
◆商業会議所の活動
法的に組織権限が規定された商業会所は、これまでの政府の諮問機関としての位置づけから徐々に活動を変化させ、積極的にかつ自主的に国に対して意見を具申 あるいは建議をするようになります
東京商法会議所以来、政府に対して意見を具申するスタイルは確立しつつありましたが、組織の位置づけが明確になることで、その活動も明確さを増したというところでしょう
◆工業の隆盛と商業会議所
商業会議所は、その名の通り「商業」一辺倒であったかというと、そうではありません。紡績業などの近代工業の利害を反映する意見を具申することもやっています。とはいえ、その活動の重点は、商品流通たとえば貿易の側面におかれているなど、商業を優先する活動内容であることは否めませんでした。結果として、当時隆盛を見つつあった工業関係者からは「商法会議所は、工業方面の活動は今一歩足りない」という評価をうけるようになります。
こうして、大正3年(1914年) 大阪工業会が、大正6年(1917年)には日本工業倶楽部が設立され、商業会議所とは別に、工業的な財界活動が展開されていくに至りました
(写真は横浜商業会議所(リンク)より )
◆改組:商工会議所へ
この時期、財界活動の代表的担い手は、大企業を中心とする産業資本に移ってきていました。明治期は発展途上であった工業的産業基盤が確立してきたということです。
それに伴って、商業・工業のいずれにも通じた組織とする意図のもと、昭和3年(1928年)の法律改正をもって、商業会議所は「商工会議所」として改められます。法律によると、商工会議所は一市一地区を原則とし、その地区内で一定の条件を備えている商工業者(納税額による制限あり)により選出された議員と、その地区内の重要商工業を代表する議員とで組織されます。
しかし、この段階においては、国家の経済政策を決定する過程に影響を及ぼす実質的な力は、大企業中心の日本工業倶楽部などに移っていました
このような流れから、商工会議所は、地域の中小企業を組織し、政府にその意見を述べていく全国的な経済団体になったわけです
◆会頭から見る時代への適応
明治に発祥した商工会議所が現在まで、様々な動乱にどのように適応してきたのか。そのあたりを歴代の会頭から推察してみましょう
商工会議所の会頭は、おおもとの渋沢栄一をはじめとして、錚々(そうそう)たるメンバーです。
東京商業会議所時代は「藤山コンツェルン」で有名な藤山雷太が会頭。日本商工会議所の初代会頭は、映画会社日活の設立や様々な事業を手がけた貴族院議員 藤田謙一です。(右の写真は藤山雷太氏(リンク)より)
なかでも、特徴的な人物が伍堂卓雄(昭和13年~昭和14年会頭)。この人は、当時隆盛を見ていた軍需産業、そのうち海軍関連産業が集まる広島県呉市で海軍工廠長を務めた人。軍人です。満州鉄道理事を務めた後、日本商工会議所の会頭に就任しています。
当時の日本は、太平洋戦争の前夜。軍が力を持って政治をも主導していく段階。政・財に加えて、軍にも顔が利く人物が会頭に座っていたことになります
昭和20年の敗戦後、日本の経済界は、GHQにより有力な財界人が公職追放されるという憂き目を見ます。敗戦当時、商工会議所会頭だった藤山愛一郎(藤山雷太の長男)は、その影響で退任。関桂三(東洋紡績副社長~繊維統制会会長を歴任)が会頭代理に就任します。わずか半年間の任期ながら、敗戦の影響をうかがわせる人事。しかし、5年後の昭和26年には再び藤山愛一郎が会頭に就任します。二度目の会頭就任となる藤山は、その肩書きを持ったまま当時の岸内閣で外相を勤め、政界に活動をシフトしていきます。
このように、商工会議所の歴代の会頭を俯瞰すると、いずれも、政界・財界に顔がきいて、当時の「時代のリーダー」的な人物をむかえていることがわかります。そしてこれは、現在の日本商工会議所でも変わりません。
会頭の影響力と全国規模の膨大な会員数を背景に、政治的・経済的影響を保ってきたと見ることが出来るでしょう
(右の写真は藤山愛一郎氏(リンク)より)
◆現在の日本商工会議所
現在の日本商工会議所は、昭和3年の改組の色を濃く残しています。すなわち、日本全国にくまなくあり、中小の商工業者を支えるという位置づけです。
北海道商工会議所連合のサイト(http://www.hokkaido.cci.or.jp/howto/index.html)によると・・・
◇目的と性格
商工会議所は、地域の商工業者の世論を代表し、商工業の振興に力を注いで、国民経済の健全な発展に寄与するための地域総合経済団体です。したがって、商工会議所の活動には、大企業も中小企業も、みんな力を合わせて、都市を住みよく、働きやすいところにしようという念願がこめられています。
◇商工会議所の特徴
商工会議所は、(1)地域性-地域を基盤としている。(2)総合性-会員はあらゆる業種・業態の商工業者から構成される。(3)公共性-公益法人としての組織や活動などの面で強い公共性を持っている。(4)国際性-世界各国に商工会議所が組織されている。という4つの大きな特徴を持っています。
◇商工会議所の事業活動
商工会議所は、業種、業態、規模の大小を問わず地区内のすべての商工業者の利益をはかるとともに、地域経済社会の振興・発展や、社会福祉の増進に資することを目的として・・・以下略・・・
とあります。
本稿のその1でも示した「商工業者が力を合わせて、地域の社会福祉に貢献していこう 」という意図も読取れる内容。発祥である商法会議所が受け継いだ目的を脈々と引継いできたことがうかがい知れます
また、各地にある商工会議所で行われているサービスは、中小企業の経営者のことをよく考えているもので、内容も非常にきめ細かいです。
たとえば、750万円までなら無担保・無保証人で融資を受けることが出来る制度や、帳簿のつけ方がわからない経営者に税理士が指導する制度、連鎖倒産を防止するための共済制度などがあります。
◆まとめ
2回に分けてご紹介してきた「日本商工会議所」。いかがでしたでしょうか。
明治初期、開国当時に発祥という大変長い歴史をもつ経済団体。激動の歴史にもまれながら、その変化に応じて組織改変しつつ今に至っていることがわかりました。以下、簡単にまとめてみます
1)今もなお残るオリジナリティ
商工会議所は、江戸時代から受け継ぐオリジナリティ、すなわち「自治的・相互扶助的側面」を今のなお残しています。たとえば、商工会議所の融資制度は、誤解を恐れずに言うなら「無条件の信頼をもとにしたお金の融通」です。大手の金融機関ならば、おそらくこんな条件では借りられません。互いに協力し合う相互扶助的精神に基づいているといえるでしょう。
また、商工会議所には、地域の商工業者の紛争を仲裁するなどの側面を有しており、その意味においては、自治的位置づけであるともみなせます。
地域に根ざした経済を支える ある意味では地味な活動ではあるものの、地域経済が連結して日本の全体的な経済を支えているとみなせば、その意味は大変大きいものでしょう
(写真は、京都商工会議所(リンク)より)
2)商工会議所・・・これからの可能性は?
現在の経済3団体の中では「経団連」が一番有名でしょう。日本有数の大企業が中心となっているため、声が大きく政界・財界への影響力も大きい。それと比べると、日本商工会議所は地味な存在かもしれません(これにはマスコミへの露出度も影響していると思います)。
しかし、冷静に考えてみると、これからの社会・経済においては、地域社会に根ざした、全国にネットワークを持つ相互扶助的団体の存在意義が大きくなってくるのではないかと思われます
大量生産・大量消費の時代は終わりました。その背景には、誰もが自らの利益追求を最優先とする、私権時代が終わったことがあります。もはや、嫌々働いて、しかし高給をもらって、大量に消費する人は少数なのです
一方で、本ブログで紹介している「共同体的企業」は、社員の充足や活力を大事にする起業。時には、社員自らが経営に参加して当事者意識を高めることによって、結果として業績を向上させている企業群です。私権時代を越えたこれからの日本には、このような共同体的企業が求められていると考えます
すると、地域に根ざした商工会議所には、そのような共同体的中小企業の支援が期待されます。さらには、全国規模の既存のネットワークを利用して共同体的経営を広げていくことも大きな魅力となるはず。100年以上の時間をかけて形成されたネットワークを利用して、企業の99%を占める中小企業がつながっていく。それは、大変「日本らしい」次代の社会貢献となりえる活動ではないでしょうか
そんな期待をして終了したいと思います
- posted by kubota.a at : 22:00 | コメント (1件) | トラックバック (0)
コメント
あっちゃんは、自分の夢の為に地道に頑張れ!
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