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2014年05月23日

「大転換期を生き抜く」シリーズ3-6 音・リズム・人類 ~観念進化の必要性~新たな社会の創出に向けて その2

木

■はじめに                                      
みなさん、こんにちは。『音♪リズム♪人類の追求~』シリーズ、7回目の記事です。前回の『音・リズム・人類 ~観念進化の必要性~新たな社会の創出に向けて その1』に続けて、今日は「その2」をお届けします。

その1では、私たち人類が「観念機能」を獲得し、それを進化させていく流れを追ってきました。中間まとめとして申し上げたのは以下3点です。
 ・サル時代の「共認機能」に塗り重ねるかたちで人類の「観念機能」が形成されている。
 ・観念機能の力は、豊かな共認能力を前提に育まれる。
 ・人類の観念機能は、万物と同化するための力であり、可能性である。
大昔、私たちの先祖が生きるために対象化していたのは「大自然」。アイヌの事例などからは、大変純粋な観念のあり様を垣間見ました。
で、今日は、近代・現代において、私たちの観念機能はどうなっているか。現状分析からスタートします。

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■私権時代の観念機能                           
まず、現在につづく「私権統合社会」において、観念機能がどのように使われているか、最も端的な指摘を引用します。

『実現論』・・・ヘ.人類:極限時代の観念機能
しかし、本源集団が解体された私権統合社会では、現実課題に応える為の観念機能は専ら私権の獲得に収束し、自分のことしか考えられない人間を作り出した。当然その私権闘争は、本源価値を抑圧し、解体してゆく。しかし、共認回路の充足の必要は、絶対である(サル・人類はそれなしには生きられない)。そこで、観念機能は(私権追求とは別に)現実には失われてゆく本源価値を、頭の中だけで対象化することによって、共認回路を充足させる方向に向かった。こうして、現実対象不在の架空観念(神や愛や自由、つまり古代宗教や近代思想)が捏造されていった。それによって、人類を進化させてきた観念機能の認識ベクトルは、現実対象から不在対象(頭の中に内在する本源価値)へと180度逆転させられてしまったのである。それだけではない。本来の観念機能は、本能課題や共認課題に直結して行動と一体となって作動するが、現実対象を捨象したこの即自観念(頭の中に内在する本源価値を言葉化しただけの観念)は、現実の一切の活動から切り離され、ただ「観念」それ自体の為に存在する。これは観念の倒錯である

これは、古代国家(古代文明)の誕生以降の社会についての指摘です。
古代国家とは、広域の略奪闘争(戦争)の末に、その勝者たる支配者(王)が頂点に立ち、数万~数百万人という大衆を支配する超集団です。そこでは、力の序列に基づき私有権が共認され、それを統合軸として秩序が形成されます。言い換えれば、万人が己の私有権=「私権」を求めることに収束し、それによって統合される社会。これを「私権統合社会」と言っています。(現在は、あちこちで綻びが見られるものの、私権統合社会です)
で、その時に、私たちの進化の可能性たる観念機能はどうなったのか・・・。「万物と同化する力」という本来のあり様から180度逆転。 自己正当化の為の観念=「現実対象不在の架空観念」に堕してしまった、ということです。(参考『『共同体経営とは?』4~人類の統合様式 ②私権原理・序列原理』 )

■不遜の観念体系・・・近代科学                      
つぎに、最も現在的な事例として「科学」という観念体系の総括を二つ続けて紹介します。

『近代科学の史的総括1~市場拡大とともに自我肥大し、自然を支配(破壊)してきた近代科学』 より
近世、市場拡大によって私権の拡大可能性が開かれ、自我を肥大させた科学者たちは、科学技術による自然の征服を目論み始める。彼らの「実験」とは自然に対する拷問であり、そこで見い出された「法則」とは拷問によって強制された自然の「自白」なのである。近代科学の原動力は自我であり、自然に対する畏敬や感謝の念からその摂理に学ぼうとする姿勢とは正反対である。 

『近代科学の成立過程1~山本義隆氏の追求を踏まえて、近代思想との関係構造を解明する』より
科学法則とは、まわりの世界から切り離され純化された小世界、すなわち環境との相互作用を極小にするように制御された自然の小部分のみに着目し、そのなかで人為的・強制的に創出された現象によってはじめて認められるものである。そのような科学にもとづく技術が、生産の大規模化にむけて野放図に拡大されれば、実験室規模では無視することの許された効果や予測されなかった事態が顕在するのは避けられない。

私たちはこれまで、己の快美欠乏(快適さや便利さに対する欠乏)を追求するあまり、科学技術の輝かしい面(=輝かしいと喧伝される面)ばかりを見て、賞賛してきました。ところが、科学とはその実、前述の「私権時代の観念機能」そのものであることがわかります。
人知をはるかに超える大自然を畏れ敬い、そこに同化するという謙虚さは180度逆転。科学は、大自然を征服し支配する為の観念体系として発展してきました。そして、最も危惧すべきは、そのような不遜の観念体系が、近代科学に至って市場拡大の道具として利用されるようになったことです。

私権統合社会では、科学者自身も私権闘争の当事者ですから、己の利益のみを追求することに迷いはありません。結果、己の地位や利益に直結する研究成果のみが問題になるため、上記引用文で指摘された「科学法則の決定的な欠陥」などどうでもよくなります。むしろ、自身の研究成果を正当化することだけが目的化して、実験室という“純化された世界”で生み出された成果を「万能だ」と言って憚らない。だから危険なものでも「安全」と宣言できるし、それがとんでもない問題を引き起こしても「想定外」と言って知らぬ顔もできるわけです。想定外とは「悪いのは自分ではなく、想定を超えた自然現象だ」と言っているに等しいわけですから、完全な自己正当化。あまりに見当違いであるため、狂信的な信仰にすら感じてしまいます・・・。

■観念機能の特殊性                             
改めて、私たち人類の観念機能の特殊性について述べます。

『実現論』・・・ヘ.人類:極限時代の観念機能
この観念機能(特に言葉)は、サルが頼りにする表情や身振りによる共認よりも、遥かに多様で容易な共認を可能にし、共認内容の無限の組み換えを可能にする。従って、観念機能こそ、DNA進化に代わる新たな進化機能=共認機能の完成形態であると言える。しかし、観念機能がDNA組み換えを超えた新たな進化機能であるという事は、その機能を獲得した人類は、その共認=観念内容によって進化もすれば退化もする可能性を孕むことになる

人類の最先端機能たる観念機能は、あくまでも本能回路や共認回路を充足する為にある。もっと簡単に言えば、現実課題に応えるためにあり、行動を導く為にある。従って、観念機能は、精霊信仰以来一貫して目の前の現実世界(自然や同類)を対象化してきた。そして現実対象⇒事実認識の蓄積によって、人類の生存様式を進化させてきた。

生物に関して一般的に言われる「進化」とは、DNAの組み換えによる形質の変化です。これを実現するには、長い時間を要します。
一方、観念機能は、DNAの組み換えとは全く異なる進化機能です。皆が可能性と認める観念内容は、瞬く間に共認されてどんどん塗り重ねられます。これによって私たちは弓矢を発明し、幅広い地域環境に適応して拡散を果たしました。たった十数万年の間に、地球のほぼ全域に人類が進出し、繁栄できたのは、まさに観念機能を獲得したがゆえです。

別の見方をすれば、だからこそ、皆に共認される観念内容が大変重要になります。無限の組み換えが可能であるがゆえに、間違った観念内容がばら撒かれる可能性は大いにあります。これは進化する方向が誤っていることと同義。したがって、退化もしくは絶滅する可能性につながります。観念機能は、人類にとって諸刃の剣といえるでしょう。

誠に残念なことに、先に述べた近代科学の問題性は、その観念が誤った方向に進展しているという指摘になります。「私権時代の観念機能」の項で述べた現実対象不在の架空観念も同様。追求を続けたとしても、頭の中を充足させるだけ。現実は全く変わらないということになります。

私たちは今、観念機能の本質的な意味を改めて学び、本来的な観念機能を取り戻す必要がある。ここまでで申し上げたかったことです。

■私たちの可能性・・・観念機能再生の地平                
では、私たちが、本来的な観念機能を取り戻すにはどうするか。言い換えれば、人類の可能性を十全に機能させるにはどうするか。その糸口を探ります。

1)対象同一性
①まず、相手を注視する⇒②相手に深く同化する⇒③相手の期待を深く看取する(応合する)。この3つを総称して「同化」と呼ぶ。
この対象の注視⇒同化⇒応合が、共認充足度だけではなく、仕事成果度も規定する。
仲間に限らず、顧客であれ社会であれ自然であれ、対象を注視し、どれだけ深く同化できるか。そして、何を掴み取れるか。それが追求力の源泉であることは、極限時代と変わりがない。
つまり、同類闘争に勝つために必要なのは、まず充足を母胎とした対象への同化⇒それを母胎とした追求なのである。
『類グループ共同体理念研修会8~同類闘争の勝敗を決するのは、対象の注視⇒同化⇒応合である』 より

私たちの共認機能⇒観念機能の成立過程を考えると、同化して認識する対象は「周り=相手」であって「自分」ではありません。相手を中心に据えて、注視して、そこから何か(期待や評価、さらには規則性や摂理などの認識)を掴み取る。これが対象同一性の原点であり、現実の問題を突破する「追求」の基点です。このように考えると、個人主義の原点的認識である“自己(自我)同一性”もしくは“アイデンティティ”という認識が、そもそも見当違いであることに気付くでしょう。答えは、全く逆の方向にあります。
まずは、相手に同化できたら(同一になれたら)「嬉しい。この感覚を素直に受け容れて伸ばすことが大切かと思います。そのきっかけが「素直にリズムに同化することが最も原初的な共認機能の動作方法」とした前々回の記事にあると思います。

2)実現思考
●現実(人々の下部意識)を否定or捨象する倒錯思考を止め、倒錯観念を捨てて現実(下部意識)を肯定的に対象化する。
●あくまで現実に立脚し(=現実を受け容れ)、決して現実を否定or捨象することなく、現実(可能性とその壁)を対象化する

それは単なる現状維持の現実肯定ではない。現実を閉塞させている倒錯観念を全的に否定している。
それは、単なるプラス志向ではない。現実の不全(危機・閉塞)をも、全的に対象化している。
『新パラダイムの点検1 現実の壁を対象化できるか?』

私権時代の観念、すなわち現実対象不在の架空観念を「倒錯観念」とし、その中での頭の使い方を「倒錯思考」と喝破したうえで、本来的な観念機能のありようと思考を端的に述べるものです。何かを実現するための思考=実現思考とはまさにこれです。

3)還元主義から全体を統合する観念へ
近代観念の思考様式は、(要素)還元主義によっています。還元主義とは、互いに影響しあい複雑な様相を呈する物事から、特定の箇所を抜き出して単純化する。その上で、最も頻度よく観察される現象を分析し、物事の原因構造とする、というものです。したがって、近代観念は恣意的に抽出した断片の集合体とみなせます。
また、還元主義を推し進めると、断片がさらに細かい断片になり・・・と、どんどん細分化して拡散していくことになります。そのために数え切れないほどの“専門分野”が登場し、膨大な“専門家”が輩出されてきました。総合すると、巨視的に見た近代観念は、断片と拡散の観念体系といえます。
これは、とりもなおさず「全体を統合する」思考が決定的に抜け落ちていることを意味しています。そして、これこそがこれからの観念に求められるものです。
・参考:『「共同体経営とは何か?」17-1 生産様式ではなく統合様式が要 その1 ~因果関係と収束関係・・・思考方法の違い~』
・参考:『「共同体経営とは何か?」17-2 生産様式ではなく統合様式が要 その2 ~統合様式が生産様式を規定する~』

■まとめ・・・新たな社会の創出に向けて                   
このあたりでまとめましょう。
生物の誕生から人類の進化までを追ってきた『音♪リズム♪人類の追求~』シリーズ。全体を通じて見ると、個体⇒ 集団⇒ 環境、全体を貫く普遍原理が存在するとわかってきました。

宇宙の誕生から一貫して、ひとつの系をなすものには「秩序化」という収束軸が存在する。それを象徴する現象が「リズム」。惑星の公転・自転運動、海の波が寄せては返す律動、心臓の鼓動など、周期的な運動を伴う集合体は、固有の秩序をもつ統合体と捉えられます。そして、様々な統合体が影響しあって、さらに大きな全体としての秩序を形成しているという流れです。

このたびの検討は、人類もそのような大きな秩序の中にいることを再確認したものです。私たちが、音やリズムの同調に感じる充足感は、おそらく、進化の過程で環境と適応的に同調することが出来た成功体験に通じているはず。私たち人類の進化の歴史、すなわち、本能⇒共認機能⇒観念機能も、環境とリズムを合わせる=同調する≒同化する、という切り口で語れるものだろうということがわかってきました。

しかし、これらの目に見えない現象、秩序化という普遍原理は、現在の観念体系では解明されていません。というか、(要素)還元主義の思考に固まった“専門家”では、どんなに頑張っても解明できないことが明らかになったわけです。

この先、私たちが観念進化をするためには、ここを突破しないといけない。目に見えないものに同化し、認識する力が、本来的な観念機能の力であることを再確認して、力を結集する必要があります。その可能性をお示しして、まとめとします。長々と失礼いたしました。

『実現論:序1(下) 新理論を生み出すのは、専門家ではない普通の生産者』
新理論を生み出すことが出来るのは、旧観念でメシを食っている知識人ではなく、現業を通じて日々現実に向き合っている生産者であり、素人である。生産者なら、現実を直視しているので、その最先端の可能性を潜在思念で掴むことができる。それに素人なら、旧観念をメシの種にしているわけではないので、旧観念に縛られる必要もない。

もちろん、日々現業に追われながら、新理論を構築するのは、極めて困難なことだが、幸い、新理論を追求し続けている生産者は、少ないながら実在する。ある意味では、経営者の何%かは、新理論を模索している創造者だと云えるかもしれない。

 

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