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2015年06月16日

共同体と死生観 ~江戸期までの日本人の死生観~

子育てに見る情愛の深さや、幸福感に溢れ世の中の悲哀を感じさせない笑い、鳥獣と人間との近しい関係など、江戸期の文明には際立った特徴が見られます。それらの江戸期までの日本文明が持っていた特徴と、自他の不運や不幸を殊更に嘆く事をしない死生観との強い連関を感じます。

 

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生命循環
死を忌み嫌い遠ざける現代社会
命の重みを知る営み

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渡辺京二 『逝きし世の面影』を読む

徳川期の日本人が病者や障害者などに冷淡だと見なされたとしたら、それは彼らの独特な諦念による。不運や不幸は生きることのつきものとして甘受されたのだ。

他人の苦しみだから構わないというのではない。自分がおなじ苦しみにおちたときも、忍従の心構えはできていた。近代ヒューマニズムからすればけっして承認できないことだが、不幸は自他ともに甘受するしかない運命だったのである。彼らにはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。

カッテンディーケは言う。「日本人の死を恐れないことは格別である。むろん日本人とても、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。彼等はその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他の天災をも茶化してしまう。

……私は長崎の町の付近で散歩の途次、たびたび葬儀を見た。中にはすこぶる著名の士のそれさえ見たが、棺は我々の考えでは、非常に嫌な方法で担がれ、あたかもお祭り騒ぎのように戯れていた」。

ヴェルナーも長崎で葬列に出会い、参列者が「快活に軽口を飛ばし、笑い声をたててい」るのを見た。「死は日本人にとって忌むべきことではけっしてない。日本人は死の訪れを避けがたいことと考え、ふだんから心の準備をしているのだ」と、彼は思わずにはいられなかった。

長崎は特別だったのだろうか。いや、神奈川宿に住んだマーガレット・バラは当地の葬送の風習を紹介するついでに、

「いつまでも悲しんでいられないのは日本人のきわだった特質の一つです。生きていることを喜びあおうという風潮が強いせいでしょう。誰かの言葉に『自然がいつも明るく美しいところでは、住民はその風景に心がなごみ、明るく楽しくなる』というのがありましたね。この国の人たちがまさにそれで、日本人はいつのまにかそういう自然に感化され、いつも陽気で、見た目によいものを求めながら自分を深めてゆくのです」

と述べている。

江戸時代人の一般的な「死生観」は、もうほとんど日本には残っていない。もしも、現代のお葬式で、江戸時代人のように振舞ったら、とんでもない「非常識人」としか思われないだろう。

だが、江戸時代人にとっては、「死」は、いつでも自分にやってきうるものであり、明日は自分がその身になるかもしれないものだった。いつでも、「死の準備」をしている人たちだった。

杉浦日向子は、こう言っている。

江戸の人々は「人間一生、物見遊山」と思っています。生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えているのです。「せいぜいあちこち見て、見聞を広めて友だちを増やし、死んでいけばいい」と考えています。ものに価値をおくのではなく、江戸の人々は、生きている時間を買います。

旅にたっぶりお金をかける人もいる一方で、無銭でも旅に出られたのが江戸のおもしろいところです。大家さんに一筆書いてもらって、「通行手形」を出してもらえば全国どこにでも行けます。

思い立った時に、夜逃げのごとくすべての借金を踏み倒して出て行ってしまう人もいます。江戸はそういうことも受け入れられる社会です。無銭のたびでは各宿場で働きます。

手形に必ず書いてあるのが、「もし旅先で死んだらあり合わせのところに埋めてください。亡骸を送り戻す必要はありません」という主旨の一筆です。「生きるも死ぬも自分の判断、他人のせいにしない」ということを、皆きちんとわかっていました。(『お江戸でござる』 杉浦日向子)

こういう考え方は、どうなのだろう。現代よりも劣っている、近代以前の迷妄の産物だと言って片付けてしまえるのだろうか。そうハッキリとは言えないのではないか、と僕には思われる。かえって、江戸時代人の死や生の考え方の方が、人間として<深い>と言えるのではないだろうか。

僕は、現代に生きているけれども、人間という概念が、とても平板で、浅くなっているような気がして、とても不満だし、危機感がある。科学は、人間という概念を、平板にしてしまったのかもしれない。すべて、「脳(前頭前野)」や、「科学的な実験」で分析できる、というように、だ。

本当は、もっと深いところでの、総合的な人間像が組み換えられるべきではないのか。

「自分」への執着が薄いというのでしょうか。必要以上に周りの人々を哀しませずに死んでいくことができたのは、ひたすらに役割を全うして生き抜いたからなのだと思えます。

 

 

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