2015年07月28日
共同体と死生観~「自分の中に光がある」一神教の神を持たない人々~
日本人にとって神さま仏さまとは何なのか?宗教学者で人類学者の中沢新一さんの講演から、その一部を紹介します。中沢さん自身の経験と洞察を踏まえて面白く語られた内容です。
前回記事
生命循環
死を忌み嫌い遠ざける現代社会
命の重みを知る営み
江戸期までの日本人の死生観
四巻目は「神の発明」というものです。最初の超越者がどのように発生したかを知りたくて、チベット人の世界へ出かけました。そこでは見事にそれを実践していました。
神は人間の心の中に発生する絶対的な自由であり、この自由なものがわたしたちの心の中を縦横無尽に飛び回っている。そういう状態が、わたしたちの心の根底にあります。それはヴァイブレーションとしてあらわれ、視神経を刺激して光となって外へあらわれる状態です。…
チベット人は、このところをはっきり知っていました。これを実際に見ようとするんですね。真っ暗闇の部屋の中に入って、何日も何日もその部屋の中にこもっていると、心の視神経の中から、自分の内面の中から、光があらわれてくる状態を作りだすんですね。これはたんに仏教の訓練法であるわけじゃないんだ、と思います。旧石器時代に人間が最初の宗教行為を行っていた洞窟の中で起こったことと同じです。
洞窟はおそろしく深い。旧石器時代人が儀式を行っていた洞窟は深く、そしてくらーいところです。深く、くらーい世界の中で、明かりと言っても動物の油で作ったちいちゃなカンテラみたいなものしかないんですよ。
そのちいちゃい火で照らしながら壁画を描いていました。その人たちが儀式をやるときはおそらく、真っ暗闇になったと思います。おそらくは洞窟の中に長時間こもったと思いますが、何も見えない世界の中で、この旧石器時代の人類は自分の心を見ています。内面に発生する光を見ています。…
旧石器時代に行われていた探求と仏教で行われていたチベットの探求とまったく同じだったということが驚きです。わたしたちの人類の発生の瞬間に脳の構造が変わって、そしてその中に縦横無尽に心の流動体を動かすことができるようになった時、見えるようになったもの。これこそが最初の神であり、精霊である、というのが、ぼく自身が教わったことでした。そしてそれは旧石器考古学などを学ぶと、まさしくその通りであったことがわかります。
じゃあ、一神教の神のようなものはどうやって発生してくるのか。ヨーロッパの考え方だと、アミニズムから多神教、一神教とだんだん宗教が発達してきて、キリスト教が最高の一神教であり、一神教の中でもキリスト教が最高の宗教形態だという考え方が発達しました。そんなのまるでウソです。
この一神教の宗教形態は超越性や人間を超えたものを強調しますが、この人間を超えたものというのは実は人間の内部にあるんです。思考能力を超えたものを見て、理解して、自分の生活と人生の中に組みこんでいく思想、これが宗教であるとしたら、一神教の神の形態というのは非常に限定されたものの考え方です。人間の全体性を強く制限したところでしか生まれてこない神の考え方だというのがはっきり見えてきます。…
日本人は無宗教だ、神を持たない、なんてよく言われますが、そういう考えはひっくり返さなくてはいけない。わたしたちはよく考えたうえで一神教の神を持たなかったんです。
それはわたしたちが人類の原初的な超越性の思考形態を大事にして、そしてそれをもとにして、精霊や神について考え、わたしたちの人生に組みこもうとしている民族だから、一神教のように神をわれわれの人間存在というものの外に持ち出して、考えるというような思考方法はとらないだけです。そのことを堂々と語ることができるのではないか、と考えます。…
世界をひとつながりのものとしてとらえる日本人の素朴な実感。その世界観は、時に厳しくもある現実を受け入れながらも、明るくたくましく生き抜く、日本人の力になっているように思います。
- posted by 岩井G at : 18:30 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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