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2015年02月05日

新聞の歴史とこれから⑨ ~戦争を契機に新聞社は社会的信頼と商売の成功を獲得した~

前回までの新聞の歴史シリーズは以下のとおりです。新聞購読者もそうでない人も是非どうぞ。
①専業でも政治主張でもない、企業発の新聞が新しい
②瓦版の普及からみえる日本人の情報への関心の高さ
③新聞の登場とそれがもたらした日本への影響
④日本人による日本語の新聞の誕生と発禁処分
⑤読者の声(評価)が信頼を形成していく
⑥庶民向け新聞の登場と皆で記事を語る場で新聞は浸透していく
⑦発禁・廃刊こそが大衆発の印(しるし)
⑧今の配達販売につながる郵便報知新聞の登場
久米宏
日本の報道・情報番組では、テーマや内容ではなく、メインキャスターが番組の顔になる場合があります。例えば、古館伊知郎氏の「報道ステーション」、その前身である久米宏氏の「ニュースステーション」。名前が番組名にすらなっている宮根誠司氏の「情報ライブミヤネ屋」、羽鳥慎一氏の「モーニングバード」、最近人気は池上彰氏で「今こそ日本人に教えたい実はみんな知らない日本」など。番組のメインキャスターによって見るor見ないを判断する人も多いようです。
実は明治時代の新聞も同じような傾向にありました。今回もその様子をガジェット通信「新たに聞く~日本の新聞の歴史」を一部引用しながら、当時の様子を見てみましょう。

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 明治22年に創刊した陸羯南(くが・かつなん)の『日本』、明治23年に創刊した徳富蘇峰(とくとみ・そほう)の『国民新聞』は、国民主義的新聞の代表的なものです。いずれも、政権を争うための新聞ではなく、独立した立場で国民の側に立ってから政治問題を論じ、社会問題を伝えることを目指しました。
(中略)
 また、明治25年には黒岩涙香(くろいわ・るいこう)の『万朝報(よろずちょうほう)』、明治26年には秋山定輔の『二六新報』が創刊しました。
 『万朝報』は、「簡単、明瞭、痛快」をモットーに、権力者のスキャンダルを暴露するセンセーショナルな紙面や連載小説で人気を得ました。現在の新聞の社会面を「三面記事」と呼ぶのは、この新聞が三面に社会記事を取り上げたことに由来すると言われています。
 一方の『二六新報』は、当初は独立した政論新聞としてスタートしましたが、経営難によりいったんは休刊。明治33年に復活してからは、財閥批判、娼妓自由廃業支援や労働者懇親会の開催など、社会問題に関するキャンペーンを展開するとともに、記事を面白く読ませるように工夫した紙面の作り方で支持を得ていました。
 価格を安く押さえ、記事を大衆向けに面白い読み物とした『万朝報』と『二六新報』は人気を二分し、東京都内第一位、二位の発行部数を誇り、激しい販売競争を繰り広げました。
 このほかにも、文学新聞として尾崎紅葉、河上肇が筆をふるった『読売新聞』、福沢諭吉のもとに創刊した『時事新報』、池辺吉太郎を主筆とする『東京朝日新聞』など、明治20~30年代には発行にかかわる個人の思想や主義が強く打ち出された新聞が活躍した時代でした。
 このころの新聞は「黒岩の万朝報」「福沢の時事新報」のように、「誰がその新聞を出しているか」「誰が記事を書いたのか」が新聞の根幹をなしており、また読者からの支持理由ともなったことから、「パーソナルジャーナリズム」とも呼ばれています。(ガジェット新聞より)

 
新聞社から発信された情報の信頼度は、歴史の浅い「会社」ではなく、それを発信した「人」の信頼性に拠るところが大きかったようです。現代のネットでの匿名の情報が胡散臭く思えるのと表裏一体の話です。もっとも、“信頼性”の中身は学歴・経歴や知名度が中心なのでしょうけど。

 明治27年に起きた日清戦争は、近代日本における最初の対外戦争となりました。新聞各社は多数の従軍記者を派遣し、『ロイター通信』と契約するなど通信ネットワークを充実させて速報を競い合いました。戦況への社会的関心の高さは各紙の販売数を急増させ、新聞社の経営規模は飛躍的に成長しました。
 日清戦争での勝利は帝国主義的な外交戦略への流れを導き、戦後の新聞紙上では「帝国主義は是か非か」を問う論戦が繰り広げられるようになりました。ほとんどの新聞は帝国主義論に同意するなか、日露戦争の開戦に反対したのは幸徳秋水や内村鑑三のいた『万朝報』と、木下尚江がいた『毎日新聞』の2紙だけでした。しかし、やがて世論が好戦ムードに傾くと黒岩は非戦論を撤回、これを不満とした幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦が退社すると、『万朝報』の全盛期にも終止符が打たれ、人気を回復することはできませんでした。
 日露戦争では、日清戦争のとき以上に、速報・号外合戦が盛んに行われ部数を拡大していきました。この二つの戦争中に獲得した読者を維持し、また成長した会社を支えるためにも“売れる新聞”を作る必要が生まれ、これを機に新聞は営利主義の時代を迎えました。(ガジェット通信より)

 
戦争のように、政府も国民も巻き込んだ共通の危機に対しては、新聞での情報収集やそれに基づく論戦が活性化します。しかしそれがなくなれば、またバラバラの個人が個人課題に追われる毎日が始まり、それを癒す為の娯楽が必要になってくるのです。具体的に新聞紙面には、読者の獲得・維持のために、俳優人気投票や美人投票など、娯楽的な要素も盛り込まれた始めたようです。

 戦争の是非を問うのはメディアの役割ですが、戦争で部数を伸ばすのもまたメディアです。初めのころは、ただひたすらに新聞という新しいメディアが珍しく、人々はそこに何が書いてあるのかを夢中になって読みました。しかし、読者数に対する発行部数が飽和するにしたがって、「読ませる工夫」をしたり「読まれる情報」を競い合うことになります。(ガジェット通信より)

日本で新聞を浸透させたのは、旧士族たち。そこには「新聞で発信する」という手段を使って「新しい日本を作る」という「志」があった。名前も顔も、時には住所まで社会に晒して、政府への批判記事も書いていた。ところが戦争を契機に、新聞は全国規模で展開され、新聞社は社会的信頼性と、商売としての成功を獲得しました。一方でそれは「売上第一」の市場経済に飲み込まれることを意味しています。

それでも欧米と違って、日本の新聞社は企業から得る広告収入が3割程度。新聞社の経営を支えているのは、戸別配達制度に基づく大衆(≒購読者)なので、大衆に軸足を置くスタンスはかろうじて継続していくのです。
*返品なしの完全注文生産である戸別配達制度は、日本の新聞制度の根幹として今後の研究課題としておきます。

 

 

 

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