2012年07月26日
【新しい潮流と新理論の必要】10.新理論が登場してこない理由2
皆さん、こんにちは
共同体企業ネットワークの理論勉強会のテキストも今回で10回目となりました。
今回も「日本を守るのに右も左もない」さんから
テキスト(10) 「新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない~」をご紹介します
初めて本ブログを読まれた方は、「理論勉強会ってどんなことを学ぶ場なの?」と疑問を持たれるかと思いますので、もう一度理論勉強会の趣旨に触れておきたいと思います
理論勉強会とは、社会の様々な事象を取り上げながら、現代に繋がる最先端の意識潮流を解明することによって、概念装置を体得する場です。
概念装置があれば、時事問題を考える時、仕事の場面で方針を出す場面・・・、
いかなる状況に置かれても答えを出すことができます。
この概念装置を作り出すには、全文明史を振り返って、人類の歴史段階的な進化の構造(=実現構造)を解明する必要があります。そして、この実現構造を解明する中で、何度も塗り重ねて構築してきた「事実の体系」が概念装置です。
事実の体系ですから、当然、現実の場面で使える理論ですし、2段階、3段階の能力アップが可能になります。
さて、今回のテーマは『新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない』
と題して、前回扱ったテーマを掘り下げていきたいと思います。
『10.新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない』より
本来なら、新理論を構築するのは、学者をはじめとする専門家の役割である。ところが、今こそ近代観念に代わる新理論が求められているのに、誰も新理論の構築に向かおうとしない。それは何故か?
学者や評論家やマスコミ人=観念思考の専門家たちは、近代観念をメシの種にして生きているので、決して近代観念を捨てることは出来ない。もし捨てれば、たちまちその地位を追われてしまう。
しかし、潜在思念は流動しており、彼らも、新しい潮流と頭の中の近代観念との矛盾・対立を少しは感じているはずだが、一向にその矛盾を切開し根本追求に向かおうとしない。
それは、そもそも新しい潮流を掴む感度が著しく低下しているからだと考えられる。
では、彼らは、人々の意識潮流=潜在思念を感取する力を、何故そこまで低下させてしまったのか?
人類は一貫して潜在思念(本能と共認機能)で現実を対象化してきた。言葉や文字が登場して以降も、それら観念に大きく規制されながらも、潜在思念発の現実思考があくまでも主役であった。ただ、文字を操る専門家は、現実から乖離した観念思考に嵌っていったが、それでも多くは、潜在思念発の観念思考に(≒健全な範囲内に)とどまっていた。
しかし、100年前に学校が出来、全国民が7~18歳(今では22歳)まで、一律に観念教育を受けるようになると、観念回路が成長してゆく時期に植えつけられたこの一律の近代観念は社会共認となり、人々の意識を強く支配するに至る。
同時に、試験制度が末端にまで浸透し、その結果、試験エリート=統合階級という身分が不動のものとして確立されてゆく。そして、この新たな身分制度が磐石なものとして確立されてゆくにつれて、統合階級の意識は大衆から離反してゆく。
中でも決定的だったのは、’70年以来(とりわけ’02年以降)、大衆が私権収束から脱して共認収束を強めてきたのに対して、あくまで私権収束を促す試験制度の勝者たる試験エリートたちの意識がどんどんエリート意識(=私権意識)に塗れてゆき、決定的に大衆とは逆行していったことである。
その結果、試験エリートたる専門家たちの大半が、大衆の期待を深く感取することができなくなってしまった。
有史以来、求道者たちは、同類期待(=みんなの期待)を深く感取し、それを自らの課題として根本から徹底的な追求を重ねることによって、新観念を生み出してきた。しかし、現代の専門家=試験エリートは、子どもの頃から近代観念を植え付けられ、その上、同類期待も真っ当に感取できなくなっているので、かつての求道者のような本物の追求課題を持ち得ていない。
もし、同類期待を深く自らの課題として孕んだ本物の求道者なら、職業的専門家になると本物の課題を追求できなくなることは明らかなので、プロの道を選ばなかったはずである。
従って、易々とプロの道を選んだ時点で、課題意識が著しく低下していることは明らかであり、専門家の99.9%は失格だと言えるだろう。
従って彼らは、相変わらず近代観念に立脚したまま専ら細分化された専門領域での目先の追求か、矛盾を取り繕う詭弁の追求しか出来なくなり、新理論どころか誰も大理論(グランドセオリー)の構築に取り組もうとしなくなってしまった。
それが、新理論が登場してこない究極の原因(「自分」観念に毒されていない者も含めて、誰も新理論を生み出せない理由)であり、全ては学校制度と試験制度の所為である。
細分化された専門領域での目先の追求、そして矛盾を取り繕う詭弁の追求の結果は、3.11の大震災で明らかにされている。原子力村で生まれた安全神話は脆くも崩れ去り、その運用経緯に対する説明責任を果たさぬまま今日に至る。その結果、一時的に日本の原発は全て稼動停止となったが、彼らは声を上げなかった。
今更世間に説明しても理解は得られないと思っているからだろうか?
否、それは彼らの専門領域での追求が、詭弁であり、学者として到底説明することができないという自信の無さのの裏返しである。
その証拠に、大飯原発再稼動で学者たちは、
お金に興味のある人たち: 原発が安全かどうかを議論していたら、原発を再開できない。安全かどうかを議論せずに再開すればお金は得られる。事故が起こったらその時はその時だ。原発を止めれば良い、ということですから原子力に信念がない人です。
るいネット『原発の再稼動を唱える人たち』より
の陰に隠れ、安全性の根本的な見解をだすことから逃げていたのである。
観念思考者たちが、根本追求に向かわない(=近代観念に代わる新理論の構築に向かわない)原因は、もう一つある。
先に述べたように、人類は同類圧力だけが現実を形成する全く新しい時代を迎えたが、人類はこれまで専ら自然圧力を対象とし、同類圧力(主に期待)をテコにして観念機能を形成してきたし、私権時代も飢餓の圧力→私権圧力を前提とした同類圧力(主に闘争)を追求力の源泉としてきた。
従って、同類圧力のみを対象とし源泉とする観念思考は、経験したことがない。
例えば、受験勉強のような私権圧力でしか観念追求したことがない人には、同類圧力のみを源泉とする観念追求は出来ない(そもそも追求する気になれない)のかもしれない。試験エリートたる専門家や「自分」観念に囚われた観念病者などは、その典型だろう。
しかし、ほぼ同類圧力のみを源泉とし、対象として期応収束⇒課題収束してきた世代なら、仲間期待発で観念追求することは、充分可能なはずである。その意味では、何よりまず、私権発から同類発へ(=自分発からみんな発へ)の意識の切り替えが求められている。
「考える(=観念思考)とは、何か?」、もう一度考えてみることが必要だ。
自然圧力を克服した現代では、「同類圧力のみを対象とし源泉とする観念思考」こそが、「考える」ことであるという認識に立てば、私権圧力下における専門領域での追求という狭い職能の檻に閉じこもった学者、そして研究機関の存在意義が大きく揺らいでいる状況を全ての「専門家」は直視する必要がある。
●「専門家」という詐欺集団にご用心!
●大学への信頼が崩れた理由~吉岡立教大学総長の祝辞より
いかがでしたでしょうか?『専門家だから答えが出せる』から『専門家だから答えが出せない』という認識転換があれば、間違ったコメントばかりのTVコメンテーターの発言も、そうなる理由がわかり、別の視点で面白く見れるようになるかもしれません。
シリーズのこれまでの記事はこちら
【新しい潮流と新理論の必要】1.これから生き残る企業に求められる能力は?① ~現在は、どのくらいの大転換なのか?~
【新しい潮流と新理論の必要】1.これから生き残る企業に求められる能力は?② ~人類は生物史を覆す大転換を経て、新しい時代に突入しつつある~
【新しい潮流と新理論の必要】1:これから生き残る企業に求められる能力は?③~答えは事実の中にある~
【新しい潮流と新理論の必要】2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた
【新しい潮流と新理論の必要】3.市場の縮小と根源回帰の大潮流
【新しい潮流と新理論の必要】4.本源回帰による活力の再生→共認収束の大潮流
【新しい潮流と新理論の必要】5.自我と遊びを終息させた’02年の収束不全
【新しい潮流と新理論の必要】6.同類探索の引力が、期応収束を課題収束に上昇させた
【新しい潮流と新理論の必要】7.情報中毒による追求力の異常な低下とその突破口
【新しい潮流と新理論の必要】8.大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機
【新しい潮流と新理論の必要】9.新理論が登場してこない理由1
※『新概念勉強会』に興味のある方は、類グループ社会事業部(大阪:06-6305-2222、東京:03-5713-1010)までお問い合わせください
次回は、本シリーズの最終回。
『学校教育とマスコミによる徹底した観念支配と、その突破口』と題して「否定の論理から実現の論理への転換」の必要性を取り上げていきたいと思います。ご期待下さい。
- posted by staff at : 22:50 | コメント (1件) | トラックバック (0)
コメント
概念的ですが、おもしろい!^^
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