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2015年02月26日

新聞の歴史とこれから⑫~新聞衰退は「志」を支配者層に売り渡した必然である

このシリーズもいよいよ終盤です。過去記事を是非どうぞ!
①専業でも政治主張でもない、企業発の新聞が新しい
②瓦版の普及からみえる日本人の情報への関心の高さ
③新聞の登場とそれがもたらした日本への影響
④日本人による日本語の新聞の誕生と発禁処分
⑤読者の声(評価)が信頼を形成していく
⑥庶民向け新聞の登場と皆で記事を語る場で新聞は浸透していく
⑦発禁・廃刊こそが大衆発の印(しるし)
⑧今の配達販売につながる郵便報知新聞の登場
⑨戦争を契機に新聞社は社会的信用と商売の成功を獲得する
⑩新聞情報は受け皿となる組織内で熟成されて運動へのエネルギーになる
⑪マスコミの「中立」「不偏不党」に騙されるな

五一五事件
昭和になった頃、日本は第一次世界大戦による好景気の反動で、経済不況と社会不安に襲われます。政府は軍部と右翼勢力の台頭を許し、昭和6年に起きた満州事変と犬養首相の暗殺事件(五・一五事件)で、ついに政党政治の機能を奪われました。
対する全国の大手新聞社は軒並み軍部支持の記事を掲げ、世論を軍国主義へ誘導or軍国主義世論に迎合する路線でしたが、唯一軍部を激しく攻撃し軍人の政治関与に警告をあびせたのが「福岡日日新聞」でした。しかし福岡日日新聞は、久留米師団から投書や本社上空を軍用機で旋回されるなどの威圧を受けることになります。
又、関東防空大演習を批判する記事を書いた「信濃毎日新聞」の桐生悠々氏は、軍出身者からの不買運動などの圧力を受け退社させられました。このように新聞に対する軍部による嫌がらせや右翼分子による暴力事件などが相次ぎました。
続く昭和11年の二・二六事件では、戒厳令のもとで軍部発表以外は一切の報道が禁止され、敢えて報道に踏み切った新聞は検閲され、事件に関する記事は白紙で印刷されるなど、さらに言論統制が厳しくなってきました。今回もガジェット通信「新たに聞く~日本の新聞の歴史」を一部引用して展開していきます。

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 また、この年には国家代表通信社である『同盟通信社』が設立されるとともに、内閣に情報委員会が設けられています。これ以降は、戦時中の内外の通信は、すべてこの通信社を通じて行われることになり、政府と軍部の情報統制の基礎が築かれていきました。この情報委員会は、後に内閣情報局として終戦まで国家報道・宣伝の統制をはかる組織として、報道全般を縛り続けることになります。
 しかし、内閣情報局には、『朝日新聞』の編集主幹・緒方竹虎『毎日新聞』の主筆・高田元三郎などが迎えられており、新聞界の一部は政府・軍部と強いつながりを持ち、言論統制の一端を担っていたという事実を物語っています。戦争が拡大していくにつれて、報道制限はますます厳しくなり、軍部に都合の悪い記事を掲載した場合は、すぐに発行禁止に追い込まれるまでになります。戦線が拡大していくと、新聞には『同盟通信社』を通じて発表される軍部の宣伝ともいえる情報ばかりが載るようになり、国民は真実を知らされないままに戦争へと駆り立てられ、おどらされてしまうことになりました。(ガジェット通信より)

武力による力の強制圧力機能を持つ政府と、志向性や思想性を左右する共認圧力を持つマスコミが手を取り合うというのは、ある意味禁じ手であり禁断の果実でもある。その力を持ってすれば、大衆のコントロールなど容易いことでしょう。戦後、戦争犯罪人として逮捕された『同盟通信社』の古野伊之助社長は、尋問に対して「厳しい検閲のために戦争に抵抗できなかった」と答えたそうですが、マスコミの持つ役割と力を考えれば、戦争に加担するのではなく、ペンを置くという選択肢は本当になかったのだろうか、という疑問が残ります。

そして新聞統制団体『日本新聞会』と内閣情報局による「一県一紙制度」の実施により言論統制体制は完成しました。当時全国に1200紙あった日刊紙(週刊、旬刊を含めると約7700紙)、昭和18年にはたった55社まで減らされます。表向きの理由は、紙・インクなどの物資と人的資源の削減でしたが、本当の目的は新聞の数を減らすことによって情報統制しやすくすることでした。

占領軍は、ただちに戦時中の言論統制法規を停止または廃止しますが、新聞、雑誌等の発行前ゲラを提出させ事前検閲を行いました。GHQによる検閲は、雑誌、広報から社内報や学校新聞まであらゆる印刷物に及んだと言われています。(ガジェット通信より)

大正の白虹事件~内閣情報局による報道規制(≒言論支配)は、その親玉がアメリカに代わったことを除けば、戦後の新憲法制定まで続いたようです。新憲法により報道の自由が保障されるようになりましたが、既に商業路線に切り替えた新聞社は、市場主義の中で力の強い側に振り向く風見鶏になっています。
「新しい社会を創るため、大衆に代わって政府にモノ申す」と、元士族が抱いたであろうを、政府に、アメリカに、そして現在は企業に売り渡した新聞社が衰退していくのは、私権支配者層の意識から大衆意識が乖離していることの表れです。つまり巷にいう新聞業界の衰退は「紙」「音声」「音声+映像」「ネット」などの媒体装置の問題ではなく、志の問題なのです。

 

 

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