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2019年06月27日

遊びの力〜生きる力を養う〜

子どもたちの『遊び』が生きる力の獲得に大きく影響していることは周知の事実。
最初のゴールデンエイジでも、やはり遊びが重要。リンク

それでも親は子どもに遊びよりも勉強を与えたがる。
思いっきり遊んだ』という経験をどれだけの子どもがしているだろうか。
実は、今の若い親世代も自身が『思いっきり遊んだ』という経験が少ないのではないか。
思いっきり遊んだ経験はないけど、「勉強させれば良い生活が手に入る」という旧い観念は持っている。

勉強→良い大学→良い生活 は、もはや過去のもの
遊び→探求力・集団で生きる力→何があっても生き抜く力 に繋がっていく。

Toyjournalより引用 リンク
例えばごっこ遊びにスリルを味わうとか攻撃性の発露といった欲求が組み合わさるとただのごっこ遊びが敵との戦いになって、悪漢をやっつけるというヒーローごっこになったりします。
 
 いずれにせよ遊びというのは人間が社会を作り、長く文明の中で生きてきた中で手に入れた本能のようなものです。人類がそうして手に入れて来たプロセスを、子どもは成長の過程で大急ぎで辿っているわけで、そうした本能を成長の過程で、また自然な形で表現している営みを、我々は遊びと言っているに過ぎないのです。

 ですから成長そのもの、子どもの存在様式そのものが遊びと言えます。そうとしか言いようがないです。まただからこそ、遊びを思い切ってやってきた人間は、満足感を持って成長したという実感があり、逆に充分に遊べなかった人と言うのは、人類が辿ってきた道筋をまだ自分は通ってきていないという欲求不満を残しているのではないでしょうか。ですから遊びというのは、今ここにいることの満足感、充足感を得るためのものだということもできます。

現在学校の現場で授業に集中できない、自分勝手な行動をする子どもが増え、学級崩壊といった問題も起きています。幼稚園や家庭でしっかりとしつけなかったからだとも言われていますが、私はそれは少し違うと思っています。

 例えば鬼ごっこなどの遊びは、ルールに従わないと遊べません。鬼が嫌だからやりたくないと言えばゲームにならない。ごっこ遊びなどはルールでさえも自分たちで作っていくものですから、一生懸命にルールを守ることを覚えます。木登りなどは少しでも油断したら自分が怪我をしますから、木の上にいる間中ずっと集中しないといけない。あの集中力は他では絶対に得られないものですし、それと比べたら授業に集中することぐらいはなんでもない。

 遊びは本当に人間の様々な面を育ててくれます。特に集団の中でしっかりと遊び切ることは、子どもが社会性を身に付けるための大きな一歩になります。

遊びこそが人間をより豊かにしてくれるのに、今の親御さんは遊びを本当に大切にしてくれません。遊びが良くないことだというニュアンスになっていることが問題だと思います。遊びは他の目的ではなくそれ自体を楽しむことです。勉強だってそれを楽しむのであれば、遊びと同じように楽しめますし、それこそが本当の勉強の在り方だと思います。

 豊かに遊べるということは豊かな人生を送れるということです。本当は子どもだけでなく、大人も一生懸命遊ばないといけないのです。
=引用終わり=

現代で最大の壁になるのは、上記を見てもわかるように「親」。
とくに、自身が思いっきり遊んだ経験のない親である。
一つの突破口は、親も子どもと一緒に、いや、子ども以上に遊んでみることではないか。
遊びの中で探求の扉を開けてみることで、本当に必要な力=追求力に気づくはず。

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2019年06月13日

ゴールデンエイジは二度来る~遊ぶこと・社会に出ることが可能性~

『ゴールデンエイジ』という言葉を聞いたことがあるだろうか?
ゴールデンエイジとは一般的に子どもの能力が一気に上昇する時期と言われている。

人によってタイミングは変わるが、一般的には5~12歳の期間。神経系が著しく発達すると言われている。
ではこの時期に子どもの力を伸ばすために必要なことは何か?
もちろん、中学受験のための受験勉強なんかではない。

答えは『遊び』。

子どもの仕事は遊ぶこと。とは昔から言われてきましたが、最近はめっきり聞かなくなりました。
子どもたちも、「遊びは勉強を頑張ったときにできるご褒美」なんて捉えている子もいるでしょう。

遊びは良いことだらけ。もともと子どもたちの“遊び”は大人の仕事を真似しているようなものが多く、
遊び仲間との関係性も含めて社会に出るための準備をしているとも言われている。

さらに、遊ぶことで身体を動かし、運動神経もフル稼働することで脳も活性化していきます。

この時期に親ができるのは、“子どもの遊びは無駄なもの”という間違った観念を捨て、思いっきり遊ばせてあげること。
(もちろん、受験勉強(暗記勉強)なんていう能力を落とすことはさせずに。)
ここまでが、一回目のゴールデンエイジ。

実は、人にはもう一度ゴールデンエイジがやってくる。
それは身体も成熟し、社会で活躍できる18~22歳の時期。
『社会的ゴールデンエイジ』と言われている。

問題なのは、この時期に大学で無駄な時間を過ごしている若者が多いということ。
貴重な成長の機会を逃しているということ。
今や、企業・社会は追求力のある人材を求めている。追求力のある人材がいる企業でないと生き残っていけないという、人材革命の時代。
そしてその追求力は現実社会の課題の中でこそ身についていくという事実。

以下、リンク より引用
>高校卒業後の19歳~22歳は、素直で様々なことを吸収する力がある期間です。同じ4年でも23歳からの4年と比べたら、その吸収力は比較になりません。この期間を「社会的ゴールデンエイジ(※1)」と呼んでもいいか思います。この社会的ゴールデンエイジを、ジョブ(仕事)を通して成長するか、アカデミック(大学)で成長するかの選択の違い。もし、自分がプロとして活躍したい分野が決まっているなら、医者や看護士、弁護士、教師など学位取得がプロになる前提でない分野を除き、社会的ゴールデンエイジをプロの世界で使った方が能力は伸びます。

すなわち、大学生より4年早くリアルな社会に出て揉まれるメリットを活かせるかどうか。採用側からみれば、素直で吸収力のある人材をどう育てるか、という視点です。
プロ野球の世界では常識で、すでに18歳の時点で潜在能力が顕在化した選手はドラフトにかかり、メンタルも含めた厳しいプロのトレーニングと、二軍、一軍のプロの試合のOJTを通して、プロ野球選手に育てていきます。

今、大リーグで活躍中の大谷翔平選手を例にあげれば、彼はこのゴールデンエイジを大いに活かした選択だったといえます。そのため、23歳ですでに4年のキャリアがあり、大リーグにキャリアアップしたといえます。プロとしての能力だけでなく、土台となる人間性、社会性もしっかりしているため、アメリカでも高く評価されています。
大谷選手を「高卒」と揶揄する人は誰もいません。それどころか、高卒でプロの世界に入れるのは「エリート」です。今年、甲子園で活躍した金足農業高校のエース、吉田輝星選手が、大学かプロか、の選択で迷っているようですが、もし、吉田選手の目標がプロ野球選手であるならば、迷わずプロを選ぶべきです。

「社会的ゴールデンエイジの使い方次第で、人の成長は大きく加速する」

こういう見方や育て方は、プロ野球やプロスポーツの世界だけにとどまりません。「大卒信仰」は、このゴールデンエイジの使い方を「大学の方が成長できる」と無意識に多くの人が信じ、捨ててしまっている点が大きな損失なのです。

これからの社会は、スピードと高度な技術が新たな価値を生み出す社会です。その時代では、素直で柔軟なゴールデンエイジは大きなアドバンテージ。そのアドバンテージを活かし、ダイナミックで緊張感のある現場の中にとびこむ若者、そして、その若者を育てていく工夫や環境を構築した企業が大きなメリットを手にします。

=引用終わり=
10131009582

この時期に親ができることは、「子どもの仕事収束」の邪魔をしないこと。
高卒と大卒で4年間。中卒と大卒では7年間の社会経験差が生まれる。
『追求力』という視点でも差が出ることは明らか。

二度のゴールデンエイジ。遊ぶことと、社会に出ることが可能性m033.gif

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2019年06月12日

数理モデルで「弱くても勝つ」ランチェスターの法則

今回は、ビジネスの経営戦略として知られるランチェスターの法則を取り上げます。
「孫子」「アレクサンダー大王」「マーレー」「ナポレオン」に続き、「戦略の教室」(鈴木博毅著:ダイヤモンド社)を参考にして展開します。
独創的な技術者だったイギリスのフレデリック・ランチェスターは自動車製造販売の事業を売却した後、航空工学の研究を重ねる過程で、1914年に「ランチェスターの法則」という数理モデルを発表します。彼の発表した法則は、第二次世界大戦中に連合国側で軍事作戦や攻撃効果の分析と決定に応用され、現代ではビジネスにも活用されています。

写真はコチラからお借りしました

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ランチェスターが発表した法則は二つあります。

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2019年06月06日

『事実の追求』それは人類が本来持っている力

プラスチック問題をはじめ、所謂環境問題に踊らされている人も多い。
気づいている人も多いだろうが、環境問題は欧米社会が優位性を保つための策謀である。リンク
=以下引用=
>その中でも「温暖化」と「持続性」の二つはかなり大規模で、論理やデータで多くの策略が見られます。まず、「持続性」ですが、石油が枯渇する、気温が上がるということをテコに私たちの文明社会は持続性を持たないという論理ですが、これには2つの間違いがあります。

1.石油や鉄鉱石などの主要資源はまだまだ膨大で枯渇の心配はありません。石油4,000年、鉄鉱石7,000年ぐらいの推定がおそらくは正しいと思います。
2.人類は野生動物の狩猟、田畑の農耕などと進歩し、さらに工業化とともに生産量を飛躍的に拡大してきました。歴史の転換点では「もうすぐ世界は終わりが来る」と言われることが多く、そのたびに、単なる脅しか、困難を克服する技術や社会制度が誕生して社会は持続性を持って続いてきました。むしろ、「今と同じ生活が続く」ということの方が、人類は体験していないのです。

日本人は慎重な性質で脅しに弱く、かつ白人崇拝なので、持続性などのように「ヨーロッパ発の暗い話」には無条件で乗る傾向があります。でも、それは情けない話で欧米とは違う感性をもつアジアの国として、自分たちで考えた思想で行きたいものです。
日本は温帯の島国ですから、気温は周囲の海水温度に左右されやすく、しかも「水」というのは「空気」の3,000倍ほどの熱を持つ力があるので、気温が変わっても容易には海水温は変わりません。中学校で「大陸性気候、海洋性気候」などを習いますが、大陸がマイナス30℃になっても、日本は零下にもならないのが普通で、気温の変化は極めて小さいのです。
地球は今、氷河時代ですから極端に暑くなることはありませんが、もし温暖化しても最初に被害が出るのはアメリカとか中国のような大陸国です。それなのに、アメリカや中国は温暖化対策をせず、日本人がやっているという奇妙な状態です。
さらに「持続性」という点では、温帯の島国ですからいかようにも生きていくことができるのが日本の特徴です。特に、日本は水や塩という生存に必要な資源を豊富に持っていますから、何の心配もありません。何も考えずに「持続性」だけを言うのではなく、具体的に何が不足したり、破壊されたりするのか、それは日本に及ぶのかぐらいは考えてほしいものです。

=引用終わり=

温暖化説にしろ、プラスチック問題にしろ、みんな心のどこかで釈然としない想いがありながらも、
「テレビでああ言っているんだから、正しいのだろう」と事実を追求をすることをあきらめて、無理やり自分を納得させていないだろうか

「追求をしない」。これは人類が長年続けてきた、自然界での生き残り競争に必須のことを放棄するということ。
つまり、自らの力で生きていくのを放棄することと同義ではないかと思う。

なぜこれほどまでに、「追求をしない」人間が増えてしまったのか。
それは、明治以降続く学校教育の害といって間違いないだろう。 リンク

=引用=
『学校は探究する自由を禁じ、失敗から学ぶことを禁じ、規則と勉強を強制して人間としての成長を阻害しているといえるでしょう。』
=引用終わり=

つまり、学校教育により人類が本来持っていた『探求する・追求する』という能力を失ってしまうのだ。

ではどうするかm052.gif
⇒子どもであれば、一刻も早く学校を飛び込み出して、とことん現実課題の探求・追求をすること。
追求を重ねることで、なんで?という欠乏、そしてどうする?という可能性探索が習慣づいてくる。
そうしているうちに、世の中に流れる情報に対しても「これは何で?」という疑問・不整合感→「真実は?」という追求が自然とできるようになり、
事実か否かの照準が定まるようになるだろう。

⇒大人はどうするか?
まずは体に染みついた近代観念を取り払うところから始めること。
そのために、潜在思念を開放すること。(高速音読は大人にもお勧め)
潜在思念で感じた不整合を流さずに、なんで?どうする?の追求に向かうこと。
事実の体系を構築するため、構造化能力を身につけること。(図解化演習がベスト!)
そして、最も大切なのが一緒に追求する仲間を見つけること

これからは、どれだけ追求仲間をつくれるかが、生死を分けるほど重要になってくるでしょう。

自ら生きるのをあきらめて、お上にぶら下がるかm052.gif
追求仲間と共に自らの力で生きていくかm052.gif 決断するのはあなた自身。
tankyuuka

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2019年05月29日

凡人を最強兵力へと変える仕組みづくり ナポレオン・ボナパルト「革命戦争」

今回は「余の辞書に不可能の文字はない」で有名なナポレオン・ボナパルトを取り上げます。 「孫子」「アレクサンダー大王」「マーレー」に続き、「戦略の教室」(鈴木博毅著:ダイヤモンド社)を参考にして展開します。

イタリアからの移民の子であったナポレオンが、一気に皇帝まで上り詰めたきっかけは、フランス革命戦争でした。
1789年のフランス革命によって、それまでの「聖職者」「貴族」「平民」という3階級による身分制度を打ち崩したフランスに対して、身分制度を保持したいイギリス、オーストリアなどの列強諸国は、革命の影響を恐れてフランスに干渉。
1792年4月、フランス革命政府は、耐えきれずオーストリアに宣戦布告。これがフランス革命戦争の始まりです。
待ってましたとばかりに欧州各国は、対仏大同盟を結成し対抗します。自ら宣戦布告したフランス革命政府でしたが、当初から負け続けます。将軍・士官だった貴族が革命で海外に亡命して、指揮や統率が混乱していたからです。

そこに登場したのが、ナポレオン・ボナパルトでした。

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2019年05月23日

不平不満では何も変わらない。大切なのは、「つくる側」に立つこと

5月も終わりが近づき、季節も夏に向かうこの時期、
ゴールデンウィークも終わり世の中から聞こえてくるのは「仕事したくない」という言葉。
ネットを見ていて驚くのは、この声が4月に入社したばかりの新社会人から聞こえるということ。

見えるのは、「思っていたよりも仕事が楽しくない。それは会社のせい。」という意識。
※本当に私権にどっぷり企業であれば、そう思うのも無理はないが。今の時代そんな企業の方が少ないだろう。
この投稿で書くのは、私権企業ではなく、本源的な価値に気づいている企業に勤めている層。

そんな風に、自らの志が生起しないのを“誰かのせい”にしていて、会社を変えたからと言って楽しく仕事ができるようになるのか?
決してそんなことはないだろう。

仕事を楽しむコツ。志を持って、活力をもって生きていくコツ。
それは『つくる側』に立つこと。

つくる側と聞くと、起業すればいいってこと?と思う人もいるかもしれないが、そうではない。
『自ら集団をつくる主体となること』。

松下電機の創設者である、松下幸之助の有名な言葉がある。MAG2NEWS より引用
>「新入社員でも、意識は社長になれ! 」
松下電器産業(現・パナソニック)の創業者・松下幸之助の訓話は刺激に満ちていたといいます。

>とりわけ心に深く刻まれているのは新人研修での訓話だ。正確な言い回しは忘れてしまったが、
「君らな、僕がいまから言う2つのことを守り通したら、松下電器の重役になれる」
といったような前置きをした上でこう言った。

「1つは、いい会社に入ったと思い続けられるかどうかや」
誰でも入社したばかりの時はいい会社に入ったと思う。しかし、嫌な上司がいたり、意に沿わない仕事をさせられたり、様々な不遇に遭う。
それでもなお、いい会社を選んだと心から思えるかどうかはすごく大事なことだ、と。

「人間、9割は自分ではどうにもならない運命のもとに生きている。その運命を呪ってはいけない。喜んで受け入れる。すると、運がよくなる」とも教えられた。
世に数百万社あるといわれる中で、この会社に入ったというのは、縁や運としか言いようがない。その自分の運命を呪わず、前向きに喜んで受け止めていくと人生は好転する。
これは会社のみならず、生まれた国や自分の容姿など、あらゆる境遇に当てはまると学んだ。

「もう1つは、社会人になってお金が一番大事と思ったらあかんぞ。もちろんお金も大事やけどな、お金は失くしても取り戻せるんや。
しかし、人生にはこれを失うと取り戻すのに大変苦労するものがある。それは信用や。信用を大事にせなあかん」
この2つの言葉に強烈な衝撃を受けた。同時に、私の社会人生活の基本、考え方の根っこになった。

「君らの立場は一新入社員やな。しかし、意識は社長になれ」
新入社員とかサラリーマンだと思って働いていると、意識まで雇われ人、使われ人になってしまう。だが、社長の意識になると、同じものを見ても景色が違ってくる。
松下電器製のネオンの一角が消えていたとしよう。一社員の意識だったら消えていることに気づきもしない。万一気づいても「消えてるな」としか思わない。無関心である。しかし、社長だったら絶対にこう言う。

「おい、うちのネオンが消えとるぞ。直せ」と。つまり、当事者意識に変わるのだ。

その日以来、私の意識はずっと社長だった。
経営方針発表会の前日には、誰に言われたわけでもないのに、もし自分が社長だったらどんな方針を発表するかを考え、それを書いて当日に臨んだ。そうすると、
「なるほどな。社長はいまそんなふうに考えとるんか。そういう見方もあったか」
と自分との差に気がつく。ただ受け身で社長の話を聞き、ノートに写すだけでは得られない学びである。
あるいは、松下幸之助が現場視察に訪れた時など、大抵の人は畏れ多くて二歩も三歩も後ろに下がるが、私は逆に松下幸之助の後ろにピタッとつき、何を質問するか、どんなことを指摘するか、どこを見ているかを徹底して研究した。

=引用終わり=

そして、この言葉の熟読もお勧めしたい 自主管理への招待(3) より引用
>しかし多くの人々が、自己の日々の労働の、疎外された現実を見つめようとはせずに、観念的に飛躍した抽象的な「社会」を相手に、政治的要求をつきつける事が「社会的」活動なのだと、錯覚している
あるいは、社会の土台を成す生産のあり方を考えようともしないで、単に個人のためだけの消費的要求を掲げ、それを社会に押しつけることが「人間的」立場なのだと、錯覚している
要するに、自らがそのために何かを成すべき社会ではなく、何かをしてくれるだけの抽象的な「社会」を措定し、そこにすべての責任をおしかぶせて、自らは何か人間的で社会的な活動をしているつもりで済ましている。
だがそれは、社会それ自身の存立を無視した、個人から社会への一方的なもたれ懸りであり、身勝手なエゴであるにすぎない。社会に何かを要求することしかできない(従って本当の社会を欠落させた)このような「運動」の結果、
この社会は、労働者や農漁民が、消費者や地域住民が、あるいは経営者や地主が、互いに「社会」正義を振りかざして私的な利権を奪い合う、エゴのゴミ捨て場と化した。社会それ自身は、誰からも見捨てられ、断末魔の苦痛に喘いでいる。

他ならぬ自分自身が、このような事態を作り出した当事者なのだという自己の存在の犯罪性に口をつぐみ、あたかも神であるかのような位相に己を移し変えて、いつも一方的に「社会」に罪をなすりつけるこのような意識構造は、
何も一部の「進歩的」な人々だけのものではない。また日夜、紙面の至る所にこの狡猜な図式をちりばめて、世論をリードしてゆく「良識的」なマスコミだけのものでもない。
社会に対する一方的な『否定と要求』のこの意識構造は、現代人すべてに共通の構造である。

この構造は、さらに近代を貫く、社会からの〈離脱と自足〉の意識潮流に根ざしている。むしろ、絶えず社会(生産)から離脱して個人(消費)へと逃避してゆく、個人主義の潮流こそ、否定と要求の根底に流れる近代精神の本流を成してきた。
事実、人々は一貫して、「自己」が抑圧される〈労働〉を忌み嫌い、「自己」が解放される〈個人生活〉を希求し続けてきた。そして工業生産の目ざましい発展によって、労働時間が大幅に短縮され、
人々の待ち望んでいた「豊かな」個人生活はすぐ手に届く所まで実現されてきた。しかし、近代工業生産を貫く効率原理が目標とするのは(それは又、「我、思う」だけで「我、在る」ことを願う近代個人主義の自我原理が目標とするものと同じであるが)、
生産および生活のあらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化することである。ところが、一つの欠乏の充足が、活動を省略して効率的に実現されるや否や、直ちにその空白部は別の欠乏によって埋められる。
かくして、工業の発展と共に、活動のない欠乏と充足だけの単純反復過程が増大し、それにつれて、生活のテンポが早くなり、生活の内容は貧しくなる。
だから又、労働時間が短くなり、生活時間が長くなればなる程、逆に全存在過程にわたって本当の活動時間が無くなってゆく
実際、この社会では「豊かな」個人生活とは、その生活を手に入れるために先取りした家財のローン返済に追い立てられる生活のことであり、もみくちゃのレジャーラッシュに馳せ参じる生活のことであり、
寸暇を惜しんでテレビにかじりつく生活のことなのである。

こうして本来の活動の場を見失った現代人は、コマネズミのように刹那的な欠乏と充足のコマを廻し続ける。そして、生活の回転が高速化してゆけばゆくほど疲労が増大し、ますます多くの余暇が必要になる。だが活動を喪い、
刺激だけを単純反復させる過程の中にある限り、いずれ遊びさえ、疲労の元でしかなくなるだろう。それでも、「善良な」市民によるこの膨大な資源とエネルギーの浪費は、世論公認の個人主義の名において正当化され、
むしろ美化され続けるのである。近代の意識の根を成してきた「個人」さえ宙に浮き、幻想と化したこのような事態を、誇張にすぎないと思う人は自分自身に問うてみれば良い。
自分は、このような個人生活以外の、どのような生活を、認識を、自分自身を、獲得しえているかと。
=引用終わり=
塾劇場

この文章を読んだ新社会人諸君は何を感じただろうか。
一生社会に、会社にぶら下がり何も変えられぬまま生きていくのか。(自分自身の変革もできぬまま)

集団を、社会をつくる側に立ち、志と活力を持って生きていくのか。

少なくとも私は当時、後者の意識に立った。それから、仕事をつまらないと感じたことは一度もない。

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2019年05月15日

自在に思考を巡らせるには ~マーレーの戦略の形成~

私たちは物事を正しく判断するために、できるだけ思い込みや好き嫌いを排除し、精神的に自由でありたいと考えます。しかし、現実には難しい。例えば一国の運命を左右する戦略を決断しなければならない人でも、必ずしも自由ではありません。誰であれ、顕在意識で捉えたものだけでなく、言葉化されていない潜在思念からの制約条件に取り囲まれているからです。

米国の軍事史研究家であり、米空軍戦争や海軍大学校などで指導実績を持つウィリアムソン・マーレーは「戦略の立案は、現実によってより大きな文脈の中に強く規定されている」と述べています。優れた戦略を選ぶためには、その影響を正しく見極める必要があります。逆に言えば私たちが日々の決断をする際に、知らずに受けている影響に気付かないと、そのマイナス面から逃れることができないのです。 ゴルフのように、吹いている風の存在に気付かないと、意図しない方向にボールが飛んでしまうことに似ています。前々回の「孫子」、前回のアレクサンダー大王に続き、「戦略の教室」(鈴木博毅著:ダイヤモンド社)を参考にして展開します。

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2019年05月14日

なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?

感受性の豊かさ、物事の機微を表現する言葉の多さ、風情などなど、日本人は独特の感性を持っていると感じています。
日本人の脳は、諸外国人に比べて何か違いがあるのではないでしょうかm052.gif

調べてみると、日本人の聴力と外国人の聴力には大きな違いがあるらしいですicon_eek.gif
耳で受信した音や声を脳の中で変換する際、日本人に聞こえる声が、外国人には聞こえないらしい。明らかに脳の性能が異なるということです。

「聴く力」が優れている。

これは、今後の追求課題であるが、日本人こそが、共同体社会の先陣を走るという根拠になりうると感じます。

以下、livedoorNEWS http://news.livedoor.com/article/detail/12520396/より引用。

●外国人は虫の音に気付かない?
日本人と外国人が同じ状況で虫の音を聞いても、外国人には虫の音が聴こえないという実例があった。
全部が全部ではないだろうが、どうやら、日本人の耳と、外国人の耳は違いがあるようだ。
西洋人は、音が聴こえないというより、機械音や雑音と同様に脳が処理しているとのこと。
日本人は虫の音を人と同じように「虫の声」として聞いているとのこと。 このような特徴は、世界でも日本人とポリネシア人だけに見られ、中国人や韓国人も西洋型を示すという。
さらに興味深いことは、日本人でも外国語を母語として育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母語として育つと日本人型になってしまう、というのである。
脳の物理的構造というハードウェアの問題ではなく、幼児期にまず母語としてどの言語を教わったのか、というソフトウェアの問題らしい。

●日本人は虫の音を声として聴く
東京医科歯科大学の角田忠信教授が、日本人の脳が他の民族の脳と違う点を生理学的に追求してきた。
追求によると、日本人は、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、言語と同様に聴き、西洋人は楽器や雑音と同じように聴いていることが分かった。
アメリカ人が虫というとまず思い浮かべるのは、モスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)など、害虫の類だ。
アメリカでは蜂はまだしも、蚊や蠅はほとんどお目にかからない。
だからたまに蠅を見かけると、とんでもない不衛生な所だという感じがする。
文明生活の敵だとして、とことん退治してしまったのだろうか? また昆虫を示す単語には、悪い語感が付随している場合が多い。
“insect”には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、”bug”は、「悩ましい、てこずらせる」から転じてソフトウェアの「バグ」などと使われる。
日本語なら「虫けら」とか、蚤、シラミのイメージだ。
虫はすべて害虫であり、その鳴く音も雑音と同様に聞くとなれば、蚊や蠅を退治する殺虫剤で、見境なく一緒に全滅させてしまったとしても無理はない。
日本では対照的に、虫の音に聴き入る文化がある。
現代でもコオロギ類の画像と鳴き声を納めたインターネットサイトから、飼育法を解説した書籍まで無数にある。
「虫の声」という以下の童謡は、虫の音に聴き入る文化が子供の頃から親しまれている一例である。

あれ松虫が鳴いている
チンチロ チンチロ チンチロリン
あれ 鈴虫も鳴き出した
リン リン リン リン リーン リン
秋の夜長を鳴きとおす
ああ おもしろい 虫の声

この伝統は古代にまで遡る。 夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこおろぎ鳴くも (万葉集、しのに:しっとりと濡れて、しみじみした気分で) 近世では、明治天皇の御製が心に残る。
ひとりしてしづかにきけば聞くままにしげくなりゆくむしのこゑかな 一人静かに耳を傾けると、虫の声がより一層繁く聞こえてくるという、いかにも精密な心理描写である。
もう一つ明治天皇の御歌を引いておこう。 虫声 さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思ひは松虫や鈴虫など、さまざまな虫がさまざまな声で鳴いている。
それらの声に「生きとし生けるもの」のさまざまな思いが知られる、というのである。
人も虫もともに「生きとし生けるもの」として、等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観がうかがわれる。
虫の音も人の声と同様に言語脳で聞く、という日本人の特性は、この文化に見事に照応している。

●犬は「ワンワン」、猫は「ニャーニャー」
角田教授の発見では、虫の音だけでなく、そのほかの動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。
これまた山や川や海まで、ありとあらゆる自然物に神が宿り、人間はその一員に過ぎないという日本古来からの自然観に合致している。
幼稚園から小学校の4、5年ぐらいの日本の子供に、犬はなんといって鳴くかというと、ワンワンというにきまっているのです。マツムシはチンチロリンという。
外国人に聞きますと、ひじょうに困るのです。
なんというていいか一生懸命考えて記憶を呼び出して、ウォーウォーといったり、ワーワーと言ったり。 日本の子供が「ワンワン」と答えるのは当然である。
親が犬を指して「ワンワン」と教えるのであるから。

同様に猫は「ニャーニャー」、牛は「モーモー」、豚は「ブウブウ」、小川は「サラサラ」、波は「ザブーン」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」。
まるで自然物はすべて「声」をもつかのようである。

このような擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、日本語の特徴である。幼児がこれらを最初から学んでくれば、虫や動物の鳴き声も自然音もすべて言語の一部として、言語脳で処理するというのも当然かもしれない。
あるいは、逆に、言語脳で処理するから、言語の一部として擬声語、擬音語が豊かに発達したのか? いずれにしろ、自然音を言語脳で受けとめるという日本人の生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達したという日本語の言語学的特徴と、さらに自然物にはすべて神が宿っているという日本的自然観との3点セットが、見事に我々の中に揃っているのである。

 ●違うがゆえに独創的なものが生まれる
日本語による脳の違いとは、我々にとってどのような意味を持つのだろうか?
理論物理学者の湯川秀樹博士は、角田教授との対談でこう語る。
つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であると言われてきた。

(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。
そうするとそこで私が考えますことは、その違うということを生かすという方向です。違うということは上とか下とかいうことではなくて、その違いということを生かす。
(中略)違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。 西洋に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です。
「違うがゆえに独創的なものが生まれる」とは、独創的な中間子理論でノーベル賞を受賞した湯川博士の言葉だけに重みがある。

日本語の脳の違いは人類の多様性増大に貢献しているわけで、「虫の音に耳を傾ける文化」などは人類全体の文化をより豊かにする独創的なものと言える。
こうした「生きとし生けるもの」の「声」に耳を傾けるという自然に対する敬虔な姿勢は、今後「宇宙船地球号」の中です べての生命と共生していくために貴重な示唆を与えうる。
我々が受け継いだこの「日本語の脳」の違いを意識的に極め、その独創性をよりよく発揮していくことは、我々日本人の全世界に対する責務とも言えるだろう。

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2019年05月09日

エンジンは自分の中に、その燃料は志

最近学生と話をしていると、「お金のために働く」という意見をいう人が少ない。
大学生→専門学生と年齢が下がれば下がるほどその意見は減っていく。
ところが、今の社会人は「お金のために働く」という仕事に対して何の活力もない人が多い。
だから、連休が明けると聞こえてくるのは愚痴ばかり。

なぜか?
応えは明白で、長年染み付いてきた学校教育による強制圧力
つまり試験の成績でしか評価されないから、点数を取るために勉強する。(暗記する)
社会人になってもそれを変えることができないと、学生時代と同じように“自分の成績”のためにタスクをこなすだけの日々。
=内発が喚起されていない。
=自らを動かすエンジンが備わっていない。
だから、外にある「お金のため」という小さなエンジンでなんとか自分を動かしているような状況。
だから、活力もでない。

どうするか?
学生であれば早く学校の強制圧力から脱却すること。
社会人であれば、今の無気力な自分をつくる旧観念を破壊し、「やりたいこと」から「やるべきこと」へ意識を転換し、お金では買えない『志』を生起させること。
新しい活力源は、周りの期待に応える充足リンク)

以下、リンクより引用 漫画家:手塚治虫の例

>手塚先生は、アシスタントの若者からも常に新しい情報を入手していました。若者たちの中でビートルズが流行っていれば、早速聴いています。手塚先生の年代では、ビートルズに関心を持つ方は珍しいでしょう。

>謙虚とは、ぜんぜん違いますよ!謙虚という言葉には、結果的には上下関係が埋め込まれているのです。むしろ積極的に、若者から学ぶのです。成功者は無意識にも自分の過去に囚われます。しかし、新しい枠組みやセンスを頭の中に入れるためには、「今の自分を壊す勇気」が欠かせないのです。スクラップ・アンド・ビルドと言いますが、ビルドよりもスクラップの方が難しい。先ほど紹介した松谷さんの本では、こんなエピソードが挙げられています。

>「変なプライド」がないんです。しかし、その一方で手塚先生はライバル漫画家に対するファイティング・スピリットもあります。手塚先生は、いつも人気一番も狙っているんです。要するに、仕事において生涯現役でいる秘訣は、少なくとも心の芯は「青年」であり続けることなのかもしれませんね。

>…。それはそうと、「変なプライド」とライバル漫画に対するファイティング・スピリットは違います。嫉妬だけならば、相手が失敗すれば問題解消です。相手から吸収し、勝負してやろうという意気込みなのでしょうね。ちなみに、根本のところで「自分の可能性に対する信頼」があれば、変なプライドはなくなります。「すごい感性だ」という衝撃を感じたときに、わからないものとして無視するか、積極的に吸収するかは、自分の可能性、もっと言えば「漫画家の表現力に対する可能性への根源的な信頼」です。 つまり、以下のような関係が成り立つわけですね。

>「変なプライド=嫉妬」 ≠ 「自分の可能性への信頼=仕事に対する信頼」

>手塚先生にとっては、同じことなのです。自分に対する信頼と漫画に対する信頼は不可分。こんな幸福な仕事人生はありません。自分の仕事を愛せば、自分を愛することになる。こんな言い方には、違和感がありますか。

>でもね。なんで、手塚治虫という人生に関心を持つ人が増えたのでしょう。アニメで大借金、50歳になっても徹夜の連続、締切間近にタクシーの中でも仕事、そんな無茶苦茶な仕事量にもかかわらず、世界との交流も…。手塚先生が60才という若い年齢でお亡くなりなったのは、漫画家という激務も一つの原因だったのかもしれない。

>手塚先生は自らの意思だけで仕事に燃えることができる人「自燃型の人」なのです。つまり、内発的な動機付けだけで動いている究極の偉人です。激しい仕事を支えているのは、漫画を描くことが好き、子供たちにメッセージを伝えたいという仕事選びの初志であり、それが消えない炎になっているのですね。残念ながら多くの人は、内発型のエンジンを積んでいません。だから、お金とか、労働条件とか、外発的な動機で動いています。

>長続きしませんけどね。

=引用終わり=
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人生100年時代と言われる時代に入っていきます。
いくつになっても生き生きと活力を持って働くか、一生活力のない人生を過ごすのか。
“今”が意識の転換期のはずです。
志発のエンジンを自らの中に備え、周りの期待に応えて続けていきたいですね。

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2019年05月01日

西洋文明最大の英雄アレクサンダー大王の3つの戦略

スポーツであれ、企業間闘争であれ、勝つために戦略は重要です。その立案には全体を見通す能力と、その中でどこに照準を当てるかという照準力が不可欠です。前回は「孫子」でしたが、今回は古代ヨーロッパを代表するアレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)を「戦略の教室」(鈴木博毅著:ダイヤモンド社)を参考にして、取り上げます。

アレクサンダー大王はギリシャ北部の古代王国「マケドニア王国」の君主で、ペルシャの圧政に苦しむエジプトを解放し、ファラオ(君主)の称号を得て、巨大都市アレクサンドリアを建設。その後東方遠征でインド洋に到達し、イスラムや中国の古代文明にまで、英雄伝説を残したほどの影響を与えました。

写真はコチラからお借りしました

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西洋文明最大最強の英雄の戦略とは一体何だったのでしょうか?

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